アダルト・出会い系・結婚裏情報TOPへ 本文へジャンプ





簡潔とは?

アダルト サイトでの検索結果です

優先キーワードは アダルト
回答率を確実に高め、誤解の余地のある調査結果を出さないために、調査内容は簡潔にまとめて、わかりやすく答えやすい質問文を使おう。
顧客アンケートを作る際には、ある目的が他のどの目的よりも優先される。それは、回答率を最大にすることだ。回答率が低いと、その調査結果は大きな間違いの元になる。なぜなら、この結果は、大多数のユーザ(アンケートに答えるよりほかに、もっと大事な用がある)ではなく、もっとも熱心なユーザという偏ったサンプルにもとづいた結果になるはずだからだ。
調査から何が「わかる」かは問題ではない。全ユーザを代表していなければ、そのデータは信頼できないのだ。
どのようにしたら、平均的ユーザの回答を得られるだろうか。回答率が最大になるのは、アンケートが短時間で苦痛を伴わない場合だ。そして、アンケートを受ける時間と、それにともなう苦痛を減らす最良の方法は、設問の数を減らすことだ。
もちろん、アンケートの操作が簡単で、設問の内容とその選択肢がわかりやすいかどうかも、よく確認しておかなくてはならない。もし設問の内容を間違って解釈されたら、その回答は使えなくなる。インタラクティブなアンケートは、ユーザ・インターフェイスだということを忘れてはいけない。ユーザ調査にもとづいてデザインし、標準ユーザビリティ・ガイドラインに準拠するべきだ。(ペーパー・プロトタイプなら、午後いっぱいあれば、調査票の反復デザインが 3 回行える。)
アメリカ最大手の銀行 10 行のうちの 1 行が、最近、企業顧客を対象に 32 画面分の調査を行った。調査の内容も難しかった。多くの画面では、4 種類の企業向け銀行サービスを、6 つの側面からユーザに評価させていた。私たちの調査では、テストユーザは 3 画面で降参した。「私は小企業のオーナーだ。こんなことをやっている暇なんてない。」というのだ。(後で私自身、この調査を根気よく最後までやり通したが、おかげで、新しい著書のためのとんでもない画面ショットがいくつも収集できた。)
アンケート肥大化は、さまざまな分野からマーケティング責任者が寄り集まった当然の帰結だ。誰もがみんな、自分独自の関心事に対する顧客からのフィードバックを望んでいる。思い付く限りのすべての情報を集めようとする誘惑には、ぜひ抵抗していただきたい。何の情報も集まらない(あるいは偏った情報しか集まらない)のが関の山だ。
アンケート肥大化へのもっとも簡単な解決策は、設問数を減らすことだ。核となるニーズを満たす質問だけにしぼり、細かいことは省く。どのみち、アンケート調査は細かい違いを調べるのには向いていない。それには、直接観察が必要だ。
最近、Harvard Business Reviewに掲載された記事「The One Number You Need」では、顧客満足度に関する洞察のほとんどは、たったひとつの設問、すなわち「友人あるいは同僚に、[X] を推薦できる可能性はどのくらいですか?」への回答から得られるとしている。
14 件中、13 のケーススタディで、この 1 問が、長いアンケートと同等の顧客ロイヤリティ予測をはじき出していた。
自由裁量で使われるイントラネット・サービスでは、この質問を、「 [サービス X] を、同僚に推薦できる可能性はどのくらいですか?」に変えればよい。業務上必須のイントラネット・サービスでは、別の質問が必要だ。従業員たちは、たとえ問題のあるサービスでも、単にそれ以外の選択肢がないから「推薦」するかもしれないからだ。
ふたつめの方法は、人によって質問を変えることだ。絶対に回答が必要な質問が 10 個あったとする。これを 2 問ずつに分けて 5 種類のアンケートを作り、1 画面に収まるようにする。各ユーザごとに、5 種類のアンケートからランダムにひとつを選んで提示する。
ウェブサイトはコンピュータなのだ。ソフトウェアを動かすその能力を活かして、ユーザごとに違うものを提示するのだ。(別の手段として、曜日ごとに違うアンケートを実施してもよい。ただ、曜日によってユーザに大きな違いがないことが前提だが。)
同じユーザに複数の質問をする必要があるのは、回帰分析や、その他の多変量解析を行いたい場合に限られる。しかし、私の経験上、ウェブ業界の人の大半は、多変量解析の話にはまったく何の反応も示さないので、実際に使うことはほとんどないだろう。
短いアンケートはよいアンケートだ。最後まで回答してくれる人の少ない(そもそも答える気になってくれればの話だが)肥大化したアンケートよりも、確実に良質なデータが集められる。
あまり時間は割けないが、3 日間のユーザビリティ・キャンプでも、アンケートに関する議論を行う。今回のキャンプでは、119 のウェブサイトとイントラネットを対象に行った満足度調査に関する新たなメタ分析の結果を発表する。この中には、満足度をどう分析し、ユーザのパフォーマンスにどう関連付ければよいか、という点に関して、かなり驚くべき結果が 2 つ含まれている。

[] Alertbox:オンライン・アンケートは簡潔に(2004年2月2日)
[引用サイト]  http://www.usability.gr.jp/alertbox/20040202.html
110

 Last Updated 2007/ 03/ 09/ 19時37分51秒

コンピュータの画面上で読むのは、紙に書かれたものを読むより25%も遅くなる。この人間工学の調査を知らないユーザでさえ、オンラインでテキストを読むのは不快だと答えるのが普通だ。このため、コンピュータの画面上で大量のテキストを読みたいと思う人はいない。テキストの量は50%に減らすべきである。なぜ25%ではいけないかというと、それは単に読解スピードの問題だけではなく、快適性の問題でもあるからだ。また、ユーザはスクロールするのも好まない。ページを短く、というのは、これも理由なのだ。
画面での可読性の問題は、将来的には解決されるだろう。すでに300dpiの画面が発明されていて、紙と同じくらい読みやすいことがわかっている。高解像度の画面は今のところ非常に高価(商業用の最高級モニタは約110dpi)だが、数年のうちには入手可能になり、何10年かすれば当たり前になるだろう。
コンピュータ画面上のテキストが非常に読みづらく、また、オンライン体験そのものにかなりの忍耐力を要求されることもあって、ユーザは一連のテキストを全部読まない傾向がある。かわりにどうするかというと、ユーザはテキストをざっと見て、興味を引くキーワード、文章、段落を拾い読みするのだ。一方、あまり興味のない部分は飛ばしてしまう。
読むというよりは、拾い読みといった方がいいのがウェブの現実だ。このことは、数え切れないほどのユーザビリティ調査でも確認されてきた。ウェブ・ライターは、この事実を肝に命じて、流し読みに対応する書き方を心がけるべきだ。
2段階、あるいは3段階の見出し(一般的なページタイトルに中見出し、必要に応じて小見出し)を利用して、記事を構造化する。見出しを組み合わせれば、画面リーダを用いている視覚障碍者にもアクセスしやすくなる
「気の利いた」見出しより意味のわかる見出しを(すなわち、見出しを読むだけで、そのページやセクションが何についてのものか、ユーザにわかるようにしておく)
ハイライトや強調を使って、大事な言葉がユーザの目に止まるようにしておこう。色付きのテキストも強調のために使えるし、ハイパーテキスト・アンカーもブルーになって下線が付くので目立つことになる。
コンテンツの深みを犠牲にすることなしに短くまとめようと思うなら、情報を複数のノード(節)に切り分け、ハイパーテキスト・リンクでこれらを結びつけることだ。各ページは簡潔にできるし、それでいてハイパースペース全体には、印刷物の記事をはるかに凌駕する情報量を収めることができる。長くて詳細な背景情報は、副次的なページに格下げしておくのだ。同様に、限られた人たちにとってのみ興味ある情報も利用できるようになるが、だからといって、これを望まない読者が不利になるようなこともない。
ハイパーテキストは、リニアな長いストーリーを複数のページに分断する目的で利用すべきではない。複数のセグメントをダウンロードさせると、読むのに時間がかかり、印刷もしにくくなる。一連のページを「2ページ目に続く」という言葉でつなぎ合わせたようなものは、適切なハイパーテキスト構造とはいえない。そうではなくて、意味のまとまりごとに情報を切り分け、各部で特定のトピックに焦点を当てるようにすべきなのだ。ガイドとなる原則としては、もっとも関心の高いトピックを選び、そのページだけを読者がダウンロードできるようにしておくことだ。言い換えれば、ハイパーテキスト構造は、読者分析を元に行うべきだということだ。
各ハイパーテキスト・ページは、「逆ピラミッド」原則にしたがって書く。まず、短く結論を述べるのだ。そうすれば、ユーザは全部読まなくてもページの要点をつかめるようになるだろう。
参考:オンライン・サービスの目的は、消費者が受け取る情報量を減らす機会を与えることだ(新刊本『Data Smog』[訳注:邦訳『ハイテク過食症 インターネット・エイジの奇妙な生態』倉骨 彰訳、早川書房刊、ISBN:4-15-208177-5 ] のSteve Outingによる書評)。
4月1日:技術サポートの話を読めば、初心者ユーザにとってインターネットの利用はかなり問題が多いことがわかる

[] Alertbox: 簡潔に!(ウェブの文章作法)(1997年3月15日)
[引用サイト]  http://www.usability.gr.jp/alertbox/9703b.html
111

 Last Updated 2007/ 03/ 09/ 19時37分51秒

この翻訳は、クリエイティブ・コモンズ・ライセンス(帰属 - 同一条件許諾 2.0)の下でライセンスされています。
1.以下の論文は、経済学の主要問題を数学的形式に変える経済理論の本質を簡潔に述べたものです。経済学は、実のところ、数量に関わっているものなので、その研究対象においてはいつも必然的に数学的であるものなのです。けれども、他のほとんどの科学では非常にうまく応用されてきた強力な表現方法というものを無視してきたため、その数量的な法則を厳密でしかも一般的に述べたり簡単に理解したりすることが妨げられてきました。とはいっても、経済学が形式において数学的になるのだから、それは厳密な計算の問題になるだろうなどと想定しているわけではありません。経済学の数学的原理は形式的で確実なものになるでしょうが、その個々のデータはこれまでどおり不正確なままなのです。
2.経済学の本当の理論を得るためには、人間の行動の大きな源泉−快楽と苦痛という感情にまで遡るしかありません。こうした感情の多くは、心身の普通の欲求や欲望から、そして私たちがその欲求を満足させるために継起的に駆り立てられる苦痛に満ちた骨折り仕事から、周期的に生じます。
経済学はこうして生じる普通の快楽と苦痛の関係を調査するのであり、充分に広い調査領域をもっています。しかし経済学は人間の動機のすべてを取り扱うわけではありません。私たちにはほとんどいつでも、良心や同情心あるいは道徳的または宗教的な源泉から生じた動機が存在していますが、経済学はそれを取り扱うことはできないし、取り扱うふりもしません。こうしたものは私たちにとって未解決で混乱させる力として残されたままなのです。もしかりそめにもそれらを取り扱おうとするなら、別の適当な学問によって取り扱わなければならないのです。
3.私たちは常に感情をなにがしかのことをなしうるだけの力があるものとして取り扱ってきましたが、私は今や感情は科学的取扱いが可能な数量であると考えるにいたったのです。
感情の比較的な量の評価は,選択や決断という行為のなかで行われます。二つ以上の進路から一つを選択するということは、私たちが評価してみて、この進路のときに快楽の帳尻がもっとも大きくなる見込みだということを示しているのです。天秤の片側に大きな均衡を失わせる力がかかっているときは、実際、この天秤の総量を評価することは極めていい加減であるのは、疑いのないことです。しかし、理論の眼目は、相反する動機がほとんど同等で、その選択に迷うときに、それらの動機に私たちが下す微妙な評価に依存しているということなのです。
4.何人かの著述家が以前から,感情は強度と持続期間という二つの次元を持つことに注目してきました。快楽あるいは苦痛は、これ以上分割しようのない各瞬間で弱いか強いかのどちらかであり,そしてまた持続する時間が長いか短いかであります。もし強度が一様で変わらないなら、生成された感情の量は、強度の単位量に持続期間の単位量を乗じたものだということになります。しかし、普通、強度は時間の関数として変化しますが、もしそうであればであれば感情の量は無限小総和法あるいは積分によって求められることになります。
このように、感情の持続期間を曲線の横座標で表すなら、強度は縦座標で表され、感情の量は面積で表されます。
6.まっとうな理論なら考慮しておかなければならない精神の原理は、洞察という原理です。期待される将来の快楽または苦痛はいずれも、現時点でも同じような快楽または苦痛の感情として私たちに影響を及ぼしますが、その強度はその不確かさと時間的な隔たりに比例して減少します。しかし洞察の効果は、理論の他の部分を作り変えないかぎり、単に理論を込み入らせるだけです。
7.以上が経済学がその上に築かれている感情についての主要な原理です。理論の第二部は、感情から、快感を増し苦痛を取り除く有用物つまり効用へと移ります。
物が有用であるとは、それが現時点で快感を惹き起こすか、あるいは洞察によって将来のある時点で快感を惹き起こすと期待されるかのどちらかです。したがって、現在の使用での実際の効用を評価された将来の効用から注意深く区別しなければなりません。将来の効用は、しかしながら、予想というあやふやな力と将来の出来事の不確かさを考慮に入れておくなら、ある程度は現在の効用を与えるのはありますが。
8.効用の総量は生み出される快楽の総量に対応します。しかし、ある有用物を感覚または欲望に一様に作用させ続けたからといって、一般に一様な量の快楽が生み出されるわけではありません。どんな欲求あるいは感覚も、多かれ少なかれ急速に満ちたりてしまいます。ある量の物を受け取ると、それ以上の量は私たちにはどうでもよいものとなります。あるいは嫌悪感を催させることさえあるのです。継続的な作用はいずれも、一般に最初の作用ほどの強さでは感情を刺激しなくなるでしょう。それで、最後に供給された物の効用は、通常受け取られた量の全体にたいしある比率で、あるいはその関数として減少していきます。この変化は理論上、最小の量にたいしても存在するので、私たちは無限小にまで縮退しなければならない。そして、効用係数と呼ばれるものは、最後に増加した、あるいは無限小の物の供給と、それが惹き起こす快楽の増加との割合なのです。もちろんこの両方とも、適切な単位で評価されているものとします。
9.効用係数は、したがって消費された物の量の全体の関数で、一般に減少関数です。ここに全理論の最も重要な法則があるのです。
この効用関数はそれぞれの物の種類に特有であり、また多かれ少なかれそれぞれの個人に特有なものです。したがって、乾いたパンへの欲求は、ワインや衣類やりっぱな家具や芸術作品あるいは結局は金銭への欲求よりも、ずっと優先的に満足させられます。また誰もがほとんど強欲になる程の自分に特有な嗜好を持っているものです。
10.さて理論の第三部は労働を取り扱うことになります。労働は私たちが快楽を探し求める手段ではありますが、労働の強度あるいは継続期間の関数として急速に増加していく苦痛に満ちた骨折り作業が、常についてまわります。したがって、さらに労働を増加することで得られる生産物の増加が与える満足よりもそれで生じる苦痛のほうが大きくなるまでは、強度においても継続期間においても労働が行われることでしょう。その苦痛と満足が拮抗するところで労働は止むでしょうが、この点に至るまでは、労働にはいつも快楽の超過分が伴っているのです。
11.私は、人間の能力は、その人本来の性質によってか教育によって無限に異なっており、それで同じ人でも違う物を生産する力量は異なっているだろうし、また同じ物についてもどの二人の人も異なっているだろうということを、明らかに正しいものとして仮定しています。
このことは、実際、リカードの影響下にある経済学の誤った単純化とは正反対であす。リカードはあらゆる労働者がある一様な力量を持っていると仮定しており、高級機械工やその他の熟練した生産者は、規則の単なる例外として取り扱っているのです。
12.この理論で扱う地代論は、アンダーソン博士やその後の著述家のそれと実質的に異なるものではありません。
もしある人が何らかの有用な物をもっているが、しかし他の人が所有している物がもっと大きな効用をもっているならば、彼は喜んで相手のものの見返りに自分のものを与えるでしょう。しかし、他方の人も同様に利得があるか、少なくとも交換によって損失がないことが必要条件となります。
交換が行われるかどうかは、どちらの側でも物の効用が評価されることによってのみ確かめることができるのですが、この評価は適切な効用関数をそれぞれの物の限界量まで積分することによってなされます。両方の効用の均衡が交換を引き起こすのです。
14.しかし、どちらかの側の有用な物がなんらかの所与の商品であって、交換が無限に小さな量でもうまくいくと仮定してみましょう。こうしたことは実質的にふつうの商取り引きで起こっている事です。今やお互いを均衡させる効用の確定した量は存在しません。しかし一方の人は他方の人に自分の商品を、もし彼が無限に小さい量を、それより多いか少なく、だが同じ交換比率で与えたときに、それによっては効用が得られなくなる量まで、その交換比率で与えるでしょう。交換される量の極限で失われる効用と得られる効用の増分が等しくなければなりません。そうでなければさらに交換が行われることになります。
商品の増分の率は、けれども、種類が一様であるような同じ商品は全ての量が同じ率で交換されるという法則が存在しなければ不確定になります。そこで、最後の増分は全ての量が交換されたのと同じ率で交換されなければなりません。この条件の下で調整がどのように行われるかを、普通の言葉で説明することはほとんど不可能です。しかし、このような交換のいずれにも二つの未知の量とそれを決定する二つの方程式があると言うことで、全事態には直ちに説明されるでしょう。未知の量とは商品が与えられまた受け取られる量です。既知の量は事前に所有されていた商品の量です。私たちはまた、それぞれの人に関して商品の効用関数がわかっているものとします。方程式はこのようにしてどちら側でも、交換された最後の増分について、全商品の同一交換率での得られた効用と犠牲にされた効用との間で立てられることになります。
15.一方の側の有用な物だけが無限に分割可能であるとき、ただ一つの未知の量、すなわち分割不能の物とひきかえに与えられる分割可能な商品の量と、それを決定する一つの方程式、すなわち分割可能な商品を持ち、それについてより多くあるいはより少なく与えることができる人に関する方程式があります。しかしこのことは、彫像とか稀覯本とか宝石といった類のない物には当てはまりません。そうした物はより多いとかより少ないという概念を許容しないのです。
最初に仮定したように(第13節)どちらの商品も分割不能であるときは、未知の量も方程式も存在しません。
16.ある交換における方程式が不可能あるいは解がないと証明されるかもしれませんが、このことは、交換が全く起こらないか、あるいは少なくとも交換の一方の当事者がもとは他方の所有する全商品をもってしても満足しないということを示しているのです。
17.このようにして二人の人と二つの商品の場合において演繹された交換の原理は、任意の数の人間と商品にも当てはまります。したがってそれは一国の一般的国内貿易だけでなく、人間の集団つまり国民の間の貿易--国際貿易にも当てはまります。
18.もちろんここで語ったような方程式は単に理論的なものにすぎません。経済の法則のような複雑な法則は、個々の場合において正確にあとづけることができないのです。その操作は集団の中で、平均という方法によって本質を見抜くしかありません。私たちはその理論的な完全性と複雑性という面では、これらの法則の数式の下で考えなければなりませんが、実際上は近似的で経験的な法則で満足しなければならないのです。
19.注意すべきことは、交換は方程式によって調整されるとはいっても、獲得されあるいは失われる効用の全体は等価ではありえず、それは交換の前と後のそれぞれの商品の効用関数の積分によって見出されるということなのです。
20.交換の理論を労働と生産の理論に結びつけると、それぞれの人が生産する量は交換の結果に依存するでしょう。というのは、交換が効用の状態を大きく修正するからです。
こうして新しいひとそろいの未知の量が導入されることになります。しかしそれを決定するだけの数の新しい方程式がたてられるということもわかるでしょう。こうした方程式はそれぞれ、生産物の最後の増分の効用とそれを生産するのに必要な労働の増分との間の方程式なのです。
21.ともかく私がここで説明しようとしている理論の残る部分は、資本に関するものです。私はこれまでの定義とはちがっていますが、さらに単純な資本の定義を与えようとしているのです。J.S.ミル氏は「資本が生産にたいしてすることは、仕事が必要としている収容場所や保護、道具、原料を与えることと、生産過程の間、労働者を食べさせたりその他扶養することである。」(原理 第3版 第1巻64ページ)と言っています。
資本を正しく理解するには、最後に列挙したこと以外は無視しなければなりません。したがって、私は資本を、労働者の普通の欲求や欲望を満たすことで、彼がその成果が出るまで多少の期間を要するような仕事を引き受けることが可能にするような、すべての有用物から構成されるものと定義します。資本は、簡単にいうと、労働者の扶養費以外のなにものでもないのです。
建物、道具、原料等々が必要な生産手段であることはもちろん完全に正しいことです。しかし、それらは既に資本あるいは扶養費に支援された労働の生産物です。それらは不完全な段階で労働に資本が作用した結果なのです。
資本がなければ、人は直ちに見返りを得なければなりません。さもなければ人は死んでしまいます。資本とともに、人は春に種を蒔いて秋に刈り入れるようになります。あるいは、道路や鉄道といった労働節約的な事業に携わるようになるのです。そうした事業は何年もの間完全には回収されません。労働の作用の改善された様式のほとんどは、成果の享受が遅延することを余儀なくするものなのです。
22.資本の総量は、その享受が遅延する効用の総量によって評価されますが、資本の利用の総量は、効用の総量にその享受が遅延する間の時間単位数を乗じたものとなります。
23.一つの市場におけるあらゆる資本の利子はただ一つの利子率をもち、したがってそれは最低の利子率となります。なぜなら、資本は扶養費だけからなり、それゆえ産業のどの部門にも無差別に使われるからです。これまで資本に分類されてきた建物、道具等々は、反対に、通常はそれが設計された単一の目的にのみ使うことができるだけです。それらがもたらす利潤は、したがって、資本の利子の法則に全くしたがわず、むしろ地代あるいは自然力の生産物の法則にしたがうのです。このことは既に、ニューマン教授がその政治経済学講義で注目しており、またその他の著述家も注目しています。
24.労働はなんらかの資本の助けを得ているものと仮定しなければならないので、利子率はいつも、生産の新しい増分がその生産に使われた資本の増分に対して生じる比率によって決定されます。すべての資本の利子は一様でなければならないので、既に利用可能な資本の総体が労働者にもたらした恩恵は、利子率の決定には何の役割も果たしません。利子率は最後に付け加えられた、あるいは付け加えられるであろう部分だけによって決まるのです。
25.私たちはいまや、資本の利子はいつも資本の総量が増加するにつれて、それが支援している労働に比べ、非常に急速に下落する傾向にあるという既知の事実を、簡単に説明できます。それは同じ時間の増加に対して、必要な資本の増分は時間とともに増加するからです。したがって、もし私が一年で完成する仕事を引き受けたとすると、成果を平均して半年間待たなければなりません。しかし、もし成果を得る前に第二年の仕事をすると、前年に対してはまる一年間、第二年に対しては半年間待つことになります。こうして私は第二年には最初の年の少なくとも三倍の資本を使うことになるのです。第三年には少なくとも五倍の資本を使わなければならないし、第四年には少なくとも七倍の資本を使わなくてはならない、等々。そこで、継続的な遅延の利益が3,5,7,9,等々という算術級数で増加しない限り、新しい付加に応じた利潤は下落しなければならず、前にいったように、資本の最低利子率が他のすべての資本の利子率を支配するのです。
26.今日の著述家たちの一般に受け入れられた意見では、利子率が下落する傾向にあるのは、土地がその耕作を推し進めてもそれに比例した収穫を生み出さないからです。しかし私は、収穫比率のこの減少は主に労働者の賃金に降りかかると思わざるをえません。資本の利子は労働に対する絶対的収穫とはなんの関係も持たず、最後の資本の増分がもたらす増加した収穫にだけ関係してるのです。
27.こうしてこの理論の原理的な特徴をいくつか説明してきましたが、貨幣、信用、労働結合、事業の危険性や不確実性、破産といったものの効果を考察する、テーマのより複雑な部分に立ち入る危険を冒す前に、この論述を終ろうと思います。
理論の最後の成果は、賃金、すなわち地代、利子、利潤、保険、税金といった労働者が利益を享受するためになされる多くの支払を控除した後の労働の生産物の率を決定することになるでしょう。

[] 政治経済学の一般的な数学理論の簡潔な説明
[引用サイト]  http://page.freett.com/rionag/jevons/math.html
112

 Last Updated 2007/ 03/ 09/ 19時37分51秒

<プログラマが他のいかなる職業と... | あなたの給料が努力や成果とあま...>
ある産業(製造業)の生産性向上が、他の産業セクタ(ウェイトレス)の賃金にどれだけ影響するのか?
池田氏は、このお湯はすごくぬるいんだ(影響は小さい)。いまは熱いかも知れないけど、どんどん冷めていくんだ。と主張。
「実際、日本のウェイトレスの賃金って高い」という現実があり、湯が熱く(影響が大きく)ないと、それの説明がつかないからでしょう。
山形氏はTFPのことを平均的な生産性と言っているのだろうが、TFPは産業のセクタごとに分かれているため、平均的な生産性はセクタごとに分離してしまう。だから、社会全体の平均生産性など考えても無意味だ。
ただし、簡単な実証データぐらいすぐにひっぱってこれそうなものなのに、それがないのが気になるところ。
これは、労働流動性によって調整がなされるという想定のモデルだが、それが実際にどの程度労働の需給を調整する力があるのか、そこは実証データの裏付けがあるわけではない。
追記:山形氏がロバート・J・ゴードン教授にメールで問い合わせたところ、劇場の図解とほぼ同じロジックの説明が返ってきた模様。ロバート・J・ゴードン教授ぐらい立場のある人が、実証データによる裏付けもなしにそんなことを言うと信用無くすだろうから、そんなことを軽々しく言うとも考えにくい、というのはある。
バブル期は、日本の製造業の生産性が非常に高く、かつ、貿易の障壁が高くて国際競争が不完全だった。
として、国際競争の不完全性によって、ある産業の生産性向上は、セクタの違う人の賃金にも影響を与える可能性があることを示唆。
山形氏の主張や劇場の図解を「光の速度は無限だと思う」とか「永久にエネルギーを生み出せる新理論を発見した」
ただし、記事内容は、単なる経済学概念の解説に終始し、なぜ、山形氏の主張と劇場の図解が「光の速度は無限」と同じぐらい間違っているのかの具体的な説明はなし。
で、湯加減が具体的にどうなのよ、ということの実証データらしきものに言及したのは、with Mac氏だけ。
一部に、これは経済学の理解度の問題であるかのような発言がありますが、経済学概念をいくら導入したところで、他の産業セクタへの影響の大きさは算出できないですよ。
データの入力がなければ、アルゴリズムの種類(正当派経済学or俺様経済学)に関係なく、答えは出ません。
もし、この論争をちゃんとやるのなら、ある産業の生産性向上が他の産業セクタに波及する・しなかったということの傍証となる実証データをどんどん引っ張ってきて、ぶつけ合うことでしょうね。
<プログラマが他のいかなる職業と... | あなたの給料が努力や成果とあま...>
「真実性を求めて分析・洞察した結果、みなが幸せになれる、政治的に正しい結論になりました」というパターンのブログ記事
むき出しの自由競争では人々は疲弊し貧困が拡大。自由競争を否定すると欲望が抑圧される。この矛盾を解決してみなが素直な気持ちで豊かに生きられる社会。
ここは極論を楽しむ劇場です。プロフィールページをよく読んで、真に受けたり鵜呑みしたりしないように気をつけてご鑑賞ください。

[] 分裂勘違い君劇場 - 今回の生産性論争の流れを簡潔・公平・分かりやすくまとめてみた
[引用サイト]  http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20070219/1171851565
113

 Last Updated 2007/ 03/ 09/ 19時37分51秒

1500円以上国内配送料無料(一部大型商品は除く)!代金引換、コンビニ・ATM・ネットバンキング払い、Amazonショッピングカード™でもお支払いいただけます。
在庫状況(詳しくはこちら): 在庫あり。 この商品は、Amazon.co.jp が販売、発送します。
以内にレジに進み、「お急ぎ便」オプション(有料)を選択して注文を確定された関東地方への配達のご注文が対象です。 詳しくはこちら');
あなたのレビューがサイトに載ります。 ※ カスタマーレビューは他のお客様により書かれたものです。ご購入の際はお客様ご自身の最終判断でご利用ください。
レビュアー:100名山 - レビューをすべて見るラス・カサスの視点を問題とせず、この書が現在に残ったことを評価します。歴史上は知っていましたが、読んで衝撃でした。この問題が現在も進行していることを私たちは認識しなくてはなりません。歴史を書いた白人と歴史を評価されない人々。資源を略奪するヨーロッパ人と自然と共存する人々。国家とは何か、文明とは何か、自衛する力を持たない民族はどうなるかがよく分かります。自称宗教と文明、そして武力を持った者が正義の名の下に増殖するのですね。この分野では現代企画室が価値ある出版をしていました。
レビュアー:ぶれぐま (Japan) - レビューをすべて見る コロンブスがアメリカ大陸を再発見した後に、スペイン人たちによるネイティブアメリカンの大量虐殺を行った事実は有名である。
本書は、その行いをスペイン人の立場から、事実をありのままにまとめたものとして、極めて貴重な歴史的資料である。
著者は、キリスト教宣教師として50年以上もキューバでの布教活動を行ったラスカサス。彼がその目で見た、ネイティブアメリカンに対する虐殺行為を広く世に訴える形の報告書となっている。
1400〜1600年当時の中世ヨーロッパでは、公開処刑や拷問がごく当たり前のように行われていた時代である。現代人からすれば戦慄を覚えるような行為も、ある程度寛容される傾向があった時代であった。
しかしながら本書に書かれた記述は、そういった当時の風潮を鑑みても常軌を逸した狂気的な虐殺といわねばならない。
鉄球に縛り付けた上で、下からとろ火で何日もあぶり続ける、赤ん坊の足を持って岩に頭を叩きつける、誰が一刀で体を二つに切断できるか賭けをする・・・。その結果1500万人以上のネイティブアメリカンが殺された。
こうした行為が、何一つ正当な理由なく行われたというラスカサス自身の言葉は、非常に衝撃的である。
人が異なる文化に出会ったときに受ける一種の違和感とそれに対する不安、漠漠とした感に始まり、次第に抑制の箍が外れて大虐殺にいたるという解釈だけでは説明できない現象がここには記されている。
人の歴史や生死を考えるために読む本である、とは言わない。考えるよりもまず手に取り、心に浮かぶ感情を受け止めるべき本である。
スペイン人の新大陸での鬼畜の所業を訴えた人物として有名な彼であるが、もうちょっと慎重に評価する必要がある。彼は1520年にこんな発言をしたことがあるのだそうである「インディオの身体の作りがひ弱であると示唆し、アフリカの住民なら、鉱山やプランテーション用の肉体的な苦役に、はるかによく耐えられる」と。この言葉が奴隷商人に示唆を与え、黒人奴隷貿易を引き起こすきっかけのひとつになったのである。彼の名誉のために付言するが、後に奴隷貿易の実態を知った彼は反省している。だが彼は何によって新大陸住民とアフリカ人を比較したのか。新大陸住民はアステカ・インカといった驚嘆すべき文明を建設したが、アフリカ人に文明は見出せないことだった。極めて独善的な評価だろう。ちなみにカトリックとして新大陸住民を「人間」と認めたのは教皇パウルス3世で1537年に教書「スブリミス・デウス」を発布し、さら異教徒であっても奴隷としてはならないとしている。
20年ほど前、半分も読まずに放り出した本。最近『インカの反乱』や『アメリカ先住民のすまい』を読んだので思い出し、久方ぶりに買いなおし、読みなおした。読み始めてすぐ、なぜあの時へこたれたのかがわかった。うんざりしてしまったのだ。中南米各地でスペイン人征服者たち(ベネスエラはドイツ人たち)が行った残酷な掠奪、虐殺のさまがしつこく描かれていて、読み進む気力が失せてしまう。とはいえ、ラス・カサスの告発から目をそらすわけにはいかない。栄光の「大航海時代」は語りたいが、その裏にあった「闇の歴史」には触れたくない。スペイン人はそんな気持から、ラス・カサスを正当に評価してこなかった。しかしかれは、ただスペインの歴史の汚点をさらけ出しただけではない。文明人と称する人々の果てしない欲望や欺瞞を糾弾しているのだ。他民族・他人種に対して優越感をもったとき、人間がこんなに非情になることができるとは。ナチスのホロコースト、大陸での旧日本軍の蛮行、北米での先住民大量殺戮…。ラス・カサスはもちろんスペイン政府や国王に対して困窮するインディオの保護を訴えているのであって、文明云々の話はしていない。インディアスがスペイン国王の持ち物であることを認めており、植民地化の是非を問うてはいない(むしろ平和的植民を進めようとしている)。聖職者としてインディオのキリスト教化を当然の責務と考えてもいる。「真の神」を知らずに殺されていくインディオへの憐憫など、宗教的優越感以外の何ものでもない。だからこんにちの読者、ことに異教徒の読者からすれば、ラス・カサスの姿勢には共感できない。かれの立場や時代を知った上で、自分なりの視点をもち、自分なりに考えなければならない。遠い過去の話として片づけられない重くて深い問題が提示されているからだ。
1492年、コロンブスによって新大陸が「発見」され、世界史は新しい段階にはいりました。これにより、当時ヨーロッパには知られていなかったタバコやジャガイモ、ついでに梅毒まで、ヨーロッパに伝えられることになります。探検家たちは続々と新大陸に渡りましたが、そのような中に、原住民インディオのキリスト教化をもくろむ宗教関係者たちもいました。著者のラス・カサスもその一人で、生涯に6度大西洋を渡り、そこで見聞きした内容を記したのが本書です。コロンブスからの最初のおよそ50年間が扱われています。 ラス・カサスらが主流になってくれていれば、私たちは今、アステカやインカの遺産を豊かに継承していたに違いないのですが・・・。
コロンブスの「発見」後数十年の間に,「新大陸」では激越な侵略行為がエスカレートして行ったようです。この本は,それを直接見聞した一人の司教がその非を糾弾するためにスペイン国王に提示した報告書です。インディオを執拗にさいなむ胸の悪くなるような蛮行を訴えるのに言葉を失ったのでもあるのでしょうか,とても感情的な非難の言葉が単調に繰返されています。そこには侵略行為についての解釈も分析もなく,結果的にはまるで報道写真のような描写になっていると感じました。それは文章表現としてはある意味で拙いというべきものなのかもしれませんが,それが却って,悲憤に震えて絶句している司教の眉間を端的に彷彿とさせてもいます。この本は出版当初から,スペインに対立する他国勢力などにとって様々な政治的思惑の下に繰返し利用されてきたそうです。今日それを我々がどういう視点で受け止めるのか,「なんてひどい奴等だ」と他人事のように言えるほど,現代の人類はこのような醜行から無縁でいられるような精神性を勝ち得ているのか,自問しなくてはならない思いが刻み込まれました。

[] Amazon.co.jp: インディアスの破壊についての簡潔な報告: 本: ラス・カサス,染田 秀藤
[引用サイト]  http://www.amazon.co.jp/a??a?3a??a?£a?¢a?1a?Rc?´a£?a?≪a??a??a?|a?Rc°!a??a?aa?±a??-a?ca?1a?≫a?≪a?μa?1/dp/4003342712
114

 Last Updated 2007/ 03/ 09/ 19時37分51秒


 人気の無料出会い系サイト
出会い系にお金なんて使ってられるかっ!
冗談じゃないっ(`・ω・´)
出会い系は無料で本当に会えなきゃ絶対ヤダって人におすすめです。
完全無料だからバシバシ使い倒してちゃいましょう♪(人ω・`)
新サイトは頻繁に更新するので要チェックです!!
セフレ系
恋人探し
メル友募集
結  婚
人妻、熟女、セレブ系
出会いチャート

 

TOPへ戻る