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独善とは?

結婚 できない 男での検索結果です

優先キーワードは 結婚
あと、無くなった集中力を高めるために、スカパー(コマーシャルのないやつ)とDVD以外は映像メディアになるべく触れないようにする。
まあ、テンプレ的に言えば、、VocalのHaLoの紡ぎ出す繊細な音楽感は今まで感じてこれなかった新しい世界観を感じさせる。久々の大型のブリット・ポップ・ユニットだ☆となるw
聞けば感じれるのだけれど、おそろしく繊細でクリアな世界観だ。しばらく、サブイボが立つ音楽に出会ったことはないのだけれど、、、立つよーーwママン怖いよ、ママン!!
・・・恩田快人のプロデュースもあり、彼らの今後の動向が非常に気になる。。もっと、もっと(浴びれるほどに)鳴らしてくれよう、、
まあ、いずれにせよ(旧世界で凝固する)素人にはお勧めできない。そんなオマイ達はNHKみんなの歌でも聴いてなさいってこった。
公開時にその斬新な感覚で若者に大評判となったウォン・カーウァイのエポック的作品。その独特のモノローグは「初期ゴダール映画の再来」と言われた。
ストーリーはともかく(別に取り立てる必要はないな)登場人物一人一人の個性の輪郭がはっきりと感じられる。
音もなく降る雨の朝のようなアンニュイな気分や、不思議な爽快感。また、人恋しくなるような暖かい物語だ。
ポラの世界は《時代遅れのカメラ》であることだし、別段取り立てる必要のないものだけれども、それでも独特のSquareの世界は既存のカメラファインダーになれてしまった人にある種の混乱をもたらす。
で、いまさらカメラの指南書なんて読みたくもないし、かといって目指すべき発色や、構図なんてものはどこで学ぶべきものなのか?
大学に入ってHnをやめてVaを弾いてますと意気揚々と伝えたら、「なぜなんだバカ」と怒られたことも良い思い出です。
人間がまったく未熟故に副部長として、まったくお役に立てず、いまさら何を言ってもバカの遠吠えですが、、。
ネットで検索したら、功績の割に名前が無く、とてもとても悔しいのでブログとここにお名前を刻んでおきます。
1991年(平成3年)は携帯電話もMailも、ましてポケベルだって普及していない時代だった。だから僕は彼女と出会った中学3年の終わり頃から高校3年の1994年10月13日まで、最低毎週2通は手紙を書いて彼女に送っていた。
毎週2通の手紙を書くノルマがどういう訳か僕等の約束になっていて、この間その頃の日記を調べたのだけれど、結局なぜ手紙を書くことになったのかは詳しくは載っていなかった。
たまに電話もしていたけれど家に毎日掛けるとさすがに問題があったから文通になったのだろう。IP電話があと10年はやく完成していたら、もっと違った話もあったのかもしれない。
彼女は欠かさず長い返事をくれて、毎回封筒や便箋は違うものが届いた。僕も毎回違う封筒や便箋をささやかな小遣いで買っては、手紙を書いていた。
カラオケやゲーセンに行ったり、近くのお城に登って夕焼けに染まる街を見下ろしながら、受験の話や家族の話、星座(オリオン座とか)について真っ暗になるまで話し込んだ。寒い冬にはコーンスープのホットドリンクを二人で買って、飲まずに暖をとり冷めてしまうまで話し込んだ。
帰り道の二人で自転車をこいで彼女のマンションまで送っていく時間が長ければ長いほど、僕は幸せだった。
ところで、受験生で片思いってのは上手く事が運ぶシュチュエーションとしては取り上げられないだろうね。小説の世界も、映画の世界でも。
なにしろ、ややこしい枝葉の話が多すぎる。内申点だの、模擬試験だの、偏差値だの。ま、僕にもそんな複合的な(雑草のようにややこしい)話があったわけで。
そしてこれが性格かどうかわよく分らないけれど、テストの前になると部屋の掃除がしたくなるように、受験が近づき忙しくなると僕はいろいろ考えていた。
翌年の3月に受験を迎える1994年10月3日に、とうとう僕はパンクしてしまった。その前の週に親友が彼女に告白したことや(振られたけれどね、だな?戦友w)4日前に戻ってきた模擬試験の結果が最悪だったことが拍車を掛けた。
そもそも受験と片思いを成立させれる程器用ではなかったのに、ペンを持っては彼女を思い、彼女を思っては受験を考えていた。そして破局的な破綻を迎えてしまった。この日を境として不眠になった。
今、再びあの時にもどれたら、やはり同じ事になるだろう。パニックになることがあの時の運命だったと思う。
「君のことがずっと好きだったのだけれど、今、僕等には時間が無いし、なにより君は来年遠くに行ってしまう(関西の大学を彼女は志望していて、僕は志望学科の関係で関東の大学を選ぶ予定だった)。だから嫌いだと言ってくれたらうれしい。」
だいたいこんな内容で、今考えてみても恥ずかしい内容で、趣旨もよく分からない告白だったと思う。ただ、当時の僕がもっと冷静で、コンビニのモノクロ・コピー代金がもっと今ぐらい安かったら、ちょっとした記念にはなったはずだ。おそらく10枚は書いていただろうから。
それにしてもだ。彼女に「君が好きだ!つき合ってくれ!!」と言わずに「お願いです。僕を振って下さい」って文面を送ったのは、やはり初恋で振られた時のショックをどうにか正当化したかったのだろう。まったく。。
さて、もちろん彼女は(今では更にだけれど:高校3年にしてはかなりの)大人の対応で、暖かくかつ、明解なメッセージを僕のポストに投げ込んだ。
「手紙有り難う。好きだと言ってくれたのはうれしかった。あなたのことはとてもいい人だと思っているわ。でも」
まあ、全部書かなくても良いでしょ?要はひととおりのお断り文だったわけで、振ってくれだの、そんなヨタ話には一切触れてはいなかった。なるほど、やるね。
僕等は毎週のように手紙を交わしあっていたのに、彼女は僕の気持ちを鼻にも掛けなかったと(話に触れてくれなかったという意味で)思って、酷く落胆した。
彼女はグタグタに煮上がってしまった僕の恋心に一気に氷水を掛け、僕の中途半端な「ガラスのうつわ」もろとも砕された、と感じて涙に明け暮れた。
もちろん冷静な今となっては、彼女がちゃんと(物理的に)返事をくれたこと自体や、その表現が「差し障りないように」削いであったことが意図されたもので、そうしたことで今日までの僕等の友情関係が保っていることに、彼女には本当に感謝しているし、こうやって文章に起こしてゆくと尊敬の念すら湧いてしまう。
ただ、彼女の大人の対応は、未熟な当時の僕に「予定された強烈な失恋ショック」を与えなかったけれど、入れ替わって入ってきた(信じていた)親密感を裏返した喪失感が、秋の野焼きの煙のように、ゆったりと漂うことになった。
今でも日記を読み返すと1994年10月13日には、ちゃんとこう書いてあるのに、その後の人生では〔いい人〕だと星の数ほど聞いた気がする。
2年前に東京から実家に戻って来たのだけれど、無意識に台所の古いプラスティック製の時計をちらりと見てしまうのは、多分その名残。
山口県光市で99年、主婦(当時23)と長女(同11カ月)が殺害された事件の上告審弁論が18日、最高裁第三小法廷(浜田邦夫裁判長)であった。上告した検察側は「残虐な犯行で、死刑の適用を回避すべき特段の事情は認められず、無期懲役の二審判決を破棄しなければ著しく正義に反する」と主張。一方、弁護側は「一、二審が認定した殺害方法は、遺体の鑑定書からみて事実誤認があり、傷害致死罪などだけが成立する」と主張。審理続行を求めたが、第三小法廷はこれを退けて結審した。
殺すつもりはなく、たまたま頸に手が入ったから不幸な事故、とか、レイプする気はなかった優しくして欲しくて抱きついただけ、レイプしたのは死んだ後だったから強姦罪ではなく、死体損壊罪だとか、
いつも日曜日の午後は複雑な気分になる。MondaySyndromeが原因だけれど、もちろんWednesdaySyndromeよりはましだ。日曜日の午後に通過儀礼的な憂鬱さが訪れるだけなのだ。 彼は頭を玄関からちょっと出して、持参のスリッパで部屋を一周し、そしてガス会社の検針員のように部屋を出て行くのだ。
だからアールグレイを彼女がお気に入りのマグに(もちろん僕のマグにも)注ぐと、もう例の憂鬱さは扉を閉めて来週へ出かけていったあとで、僕の耳にその残音だけが残った。
「さて」彼女は2枚のケーキ皿をチョイスしてベーグルを載せる。「テーブルは拭いておいたよ」僕はちょっとだけ一連の作業に参加していることを主張する。もちろん彼女はそんなことは聞いちゃいない。
ほんの一週間前の話なのだけれど、ベーグルを焼く機械を手にした彼女は、以来ベーグルを朝に昼にと焼きまくっていた。機械を手を尽くして入手した僕への「一連の貢献」とかPKOとかPKFとか、、まあ、ともかく、この「ベーグル・マシーン」を売っていた店の様子も、付属のオプションをどう検討したかなんて事も気にしてはいなかっただろう。
行儀良く椅子に腰掛け、僕はベーグルが彼女によって運ばれてくるのを犬と待ちながら、そよ風になびくカーテンへ視線を移す。
米国がメキシコに敗北し、失点率で日本が“たなぼた”の4強入りを果たした。世紀の誤審に泣き、2度も韓国に退けられ、日本の「ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)」は終わったはずだった。しかし、奇跡が舞い降りた。イチローの胸にあるのは、3度目の正直となる韓国にリベンジし、WBC前に公言した「世界一になる」ことだけだ。くしくも韓国の闘志をあおった「30年発言」を実現するチャンスも回ってきた。
・・・16日の韓国戦で多村が空振り三振で倒れ、敗戦が決定したとき、思わず「ファック(くそったれ)」と咆哮した。
空から降りてくる一枚の花びらを探すように、彼女はマフラーに顔を埋めながら窓から空を眺めている。花びらは落ちては来ない。
握るハンドルが雪の轍(わだち)にタイアを取られたことを知らせる。鈍い感覚が乱調で伝わってきた。僕はそれらに何らかのリズムを感じ取ろうとしたけれども、もちろん、そのような規則性は見いだせない。レコードに刻まれた溝を走る細長い針を思い浮かべる。町中の溝を巨大な針で読み取れば、ベートーベンのソナタでも聞こえるのだろうか。
昔、僕等が多摩川を歩いたときも雪が降った。積もりはしなかったけど、落ちてくる雪の中を手をつないで二人で歩いた。でも、肌に触れる雪は冷たくなかったし、溶けた水でコートを濡らした思い出はない。もちろん、コートに落ちた雪は溶けるものだけれど。
僕には特に異議はなかったけれど必要性は感じなかった。多分、雪の夜にクリーム・コロッケを揚げるテレビコマーシャルを見たことが無いから何となく違和感を覚えた、程度の話だけれど。でも、実際クリーム・コロッケを揚げるコマーシャルなんて見たことがない。雪だるまを造った子供達が母親に呼ばれてテーブルを囲みクリーム・コロッケを頬張るコマーシャル。
だけど、ケチャップの酸味を想像して口に唾液が溜まる。この段階で僕はクリーム・コロッケの必要性を認めざるを得なかった。コロッケは必要とされた。求められた。雪だるまを造った子供達はクリーム・コロッケを頬張ったのだ。
僕はナシゴレンのおかずとしてのクリーム・コロッケを何となく提示したが、彼女はそれをやはりテレビ・コマーシャルを理由にキッパリと拒否した。
確かに雪だるまを造った子供達が、インドネシアのナシゴレンを頬張るコマーシャルなんて僕は見たいとは思わないね。
POLASTYLE.COM Poraroidoのスタッフが企画するポラファンのためのオフィシャルページ。
Happy Tree Friends 超非公式ファンサイト※18才未満禁止。このサイトは(愛くるしいキャラ達によって)過激な暴力シーン・表現が含まれています。純真さを失う可能性がありますので、ご注意下さい。

[] 独善概論(dokuzen-gairon)
[引用サイト]  http://dokuzen.txt-nifty.com/blog/
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 Last Updated 2007/ 03/ 05/ 14時07分30秒

時間はすでに午後3時近かった。平原の南の縁で、赤い砂層の低い崖があるところで昼食にした。その崖の幅は2キロほどで高さは20メートルくらいあり、西側の上部には礫をふくむ白色の粘土質の砂層が重なっていた。 昼食は、朝もらったハビラガ(リブ)を煮ておかずにした。私がナイフを上手に使って肉をそぎながら食べるようすを見て、
トゥンバイヤーは、金属鉱床探査のためにロシアの地質学者と共同で調査をすることが多かったという。その時にロシア人は、ゲルの人から羊を買うことをせずに野生動物を銃で殺して食料とした。
野生動物を殺すことは、モンゴル人にとっては苦痛であるにもかかわらず、それをまったく理解しないという。また、彼らは私のようにモンゴル人と同じに床に座ることは絶対にせず、椅子やテーブルを用意させて食事をするという。そして、恐竜化石をはじめ研究資料については彼らが独占したり、自国に持っていって返ってこない場合が多かったという。
モンゴル人とロシア人の生活習慣の違いはたいへんに大きい。それにもかかわらず、ロシア人は絶対にモンゴル人に合わせることはしない。東洋人と西洋人の考え方や習慣、それに西洋人のもつ独善主義・覇権主義・植民地主義の現れとして、モンゴルでのロシアの調査隊の行動は象徴的なひとつの例だと私は思った。
モンゴルの人々は、中国人に対しても西洋人と同様の、いやそれ以上の嫌悪感をもっている。中国人とモンゴル人の生活様式は日本人にとって一見似ているように思われがちだが、農耕の民の中国人と遊牧の民のモンゴル人では生活様式から考え方までまったく正反対なのである。
それに中国は内モンゴルなどモンゴル民族の地を奪い、一時期モンゴルを支配していた国でもある。さらに現在では、モンゴルが国を開いたために中国人の不法侵入者が増加しているともという。
モンゴル高原が中国(当時の清朝)の支配下に入ったのは17世紀後半であったが、中国人が本格的にこの地に入ってきたのは、18世紀になってからであるといわれる。そのころ、帝政ロシアがモンゴル高原の北側まで侵入していて、1727年に清朝とロシアで通商条約がかわされた。それによって、清国の商人がモンゴル高原を舞台に活動を活発にはじめた。それまで貨幣を知らなかった純朴な遊牧の民は、その後の流通経済のしくみの中で多くが破産し奴隷となっていった。
1911年の辛亥革命によって清王朝が滅んだ時に、モンゴル人は帝政ロシアに頼って独立を宣言した。しかし、内モンゴルをも含めた「大モンゴル国」の独立は、ロシアと中国という大国のかけひきの中で黙殺されて、結局外モンゴルに限って中国の宗主権下での自治が認められたにすぎなかった。
その数年後、頼りにしていた帝政ロシアが革命によって倒れ、そのどさくさの中、中国が再びモンゴルの統治権を手に入れようとした。モンゴル人は自らの国を中国人に支配されることを嫌い、それから逃れるために北のソ連に援助を求めた。そして、1924年にモンゴル人民共和国という社会主義国家が誕生した。独立宣言から国家誕生までには多くの血が流され、国家誕生後もそれはつづいた。

[] 大国の独善主義
[引用サイト]  http://www.dino.or.jp/mongol/tr94/tr94_509.html
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 Last Updated 2007/ 03/ 05/ 14時07分30秒

ハロー!このページは、俺こと名盤認定協会長が浅薄な音楽知識と勝手な独断&偏見でミュージックシーン(笑)をバッサバサ斬っちゃうコーナーだぞ〜。わお!
↑でタイトルカットを描いてくださったマンガ家の魚住青時さんが、今週から少年マガジンで『ぼくらの戦国白球伝』というギャグ漫画を連載されてます。ぜひご覧になってみて下さい。
前作『扉』と好対照を成すアルバム。「枯淡」「円熟」といった形容が似合う枯れた風合いの『扉』に対し、本作は硬質なサウンドメイキングとかつての歌謡曲路線を思わせる美しいメロディーが強調され、瑞々しさとダイナミズム溢れる傑作に仕上がっている。わずか半年のインターバルということもあってあまり期待はしてなかったんですが、個人的にはド真ん中の出来でしたね。
セッション風のイントロから、ツェッペリン「アキレス最後の戦い」を引用したギターサウンドの渦が荒れ狂う「平成理想主義」。サポートギタリストの参加で、全体のギターの質感が鋭く尖ったものになっているんだけど、それによって彼らのルーツであるブルーズ・ロックの血が甦った感がある。とはいえ這いずるような独特のヴォーカルがやりきれぬ寂寥や鬱屈を吠え散らすあたりはまったくもっていつものエレカシなのだが、年齢を重ねるごとに軋みを上げるやさぐれ度合いはたぶん過去作の中でも屈指、というか全曲そんなのばっかです。
不甲斐なき時勢に怒り、戸惑い、時に閉じ籠もっては悟ったような感慨を連ね、素朴な幸せに居場所を見つけようと優しく囁いてみたりするものの、結局すべてをご破算にして傷だらけの中年ロック道を突き進むエレファントカシマシ。戻れない『扉』を開けてみれば、そこはただ荒涼と吹きすさぶ『風』だけだった、と嘆きたくなるような孤独に立ちすくみながらも、こちとらダテに年季を積んでるわけじゃねえ、衰えゆく我が身と歯がゆい現実へ真っ向から対峙し、やけっぱちでも何でもとにかく次の一歩を進めていくぜ、ってな腹の括りかたが、結果的に高純度なポップさをも導き出したようだ。背骨に“美学”の通った居佇まいは、それがどんな無様な形であれ、透徹した格好の良さを体現するのだと改めて感じ入りましたよ。歴史に碑を残すアルバムではなく、あくまで宮本浩次の2004年における所信表明であり現状確認に過ぎないが、それゆえにリアルな時代の息吹と身を刻むような決意を噛みしめることのできる一作。死ぬまで戦え!
一昨年のベスト盤『Forever Delayed』に収められた「There By The Grace Of God」からもこうした作風は確かに予測し得たわけだが、まさかここまでど真ん中なニューウェイヴ趣味を展開してくるとは思わなかった。オープニングの「1985」からして、80年代への郷愁まっしぐらな、多幸感に溢れた交響シンセポップですよ。参ったね。アルバム全体を通して憂愁をたたえたヨーロピアンな美意識が貫かれており、ある意味もっともマニックスらしくない問題作と言える。
とにかく金の掛かり方がハンパじゃないっつうか、トニー・ヴィスコンティによるクライマックス「Cardiff Afterlife」まで、それはもう絹のレースを幾重にも折り重ねたようなゴージャス感を存分に堪能できます。ここまで装飾を凝らすと逆に悪趣味なケバケバしさへ傾いてしまいそうなものだが、そこは一歩手前で絶妙な抑制が利いていて、その冷静さも含めて嫌味なくらいの余裕っぷりですよ。
もちろん曲はきちんと書けているし、ジェームズ・ディーン・ブラッドフィールドのヴォーカルはバーナード・サムナーとは比較にならないほど深みと豊かさを備えているので、クオリティ的には申し分ないのだが、これまでの彼らが好きだった俺からすると「こんなの俺のマニックスじゃねえ!」と正直戸惑ってしまう(まぁアルバム出すたびにそんなこと言われるバンドこそたまったもんじゃねえだろうけどな)。しかし俺がマニックスに惚れてしまった格好の良さというのは、歌謡曲すれすれのベッタベタなメロディーで過剰に熱いメッセージを叫ぶところだったわけで、それが何なんですか、このゆったり落ち着いたダンディーおじさま風素敵居佇まいは!いや〜、このアルバムが良質なのはわかるんですけど、今のところ俺の方が心の調整ついてない感じです。その意味では、彼ららしい劇的な美メロが後退しているのも入り込んでいけない要因かなぁ。
UKトップバンドとして絢爛たる音世界を広げてくれたのは文句なく拍手喝采ものだとして、これはやっぱり大人のアルバムですね。シングル曲「The Love Of Richard Nixon」に顕著な、キラキラした輝きとねじくれ曲がった鬱積の混在する切ないんだかダークなんだかな複雑さも含めて、人生と生活に余裕と諦念を持って臨める大人になったとき初めて、このアルバムを楽しめるのかもしれませんな。よっしゃー、百万ドルの摩天楼を眼下に葉巻とガウンと真紅のワインが似合う大人になるぜ!(お前の大人観も貧困だな!)
全盛期の岡村ちゃんに関してはベスト盤をちょろっと耳にした程度、復帰後のシングルは「真夜中のサイクリング」(と、c/wの「なごり雪」)しかちゃんとチェックしてなかった人間なんですが、このアルバムは予想以上に楽しめたです。世代的に岡村靖幸というミュージシャンへの期待や思い入れが全くないからかもしれないけど、それを差し引いてもこの人のエネルギーの熱量は尋常じゃないものを感じる。ダカダカした打楽器にねばっこくねちっこく絡みつくリズム、しゃがれてるのに奇妙に若々しい張りをたたえた歌声、ひっきりなしに入る熱っぽいスキャット、俗っぽさの極みと淫猥な昂揚感。これがファンクってやつじゃん!!音のセンスはやや大時代的ながら、きちんとコンテンポラリーなテクノ〜エレクトロの要素を内在化させてるのも嬉しいところ。いやいやいや、2004年型日本語ファンクの一枚としてがっつり喰えるアルバムですよ、これは。
“少年の情念で冒険をつかみとりたいぜ”“いわばシャイでひきこもりの日常を返上したい”と燃えたぎる情熱をちぎっては投げる「ミラクルジャンプ」。中年のギラギラした倦怠と欲望からふと顔を出すイノセントな突破願望に胸がぎりぎりと締めつけられます。こんなこと汗まみれで歌われたら、いくら筋金入りの引きこもり系帰宅部リスナーな俺だって踊り出さずにはいられないさ。誰もが自意識の殻を理論武装でぶ厚く固めて安全圏に閉じこもっちゃってる現代にあって、彼のような臆面もない恥ずかしさ開けっぴろげなロマンチシズムは白亜紀の恐竜のごとき時代遅れの代物かもしれないが、だけど岡村ちゃん、キミは爪の先までポーズしてる氣志團の綾小路翔よりずっと永遠の16歳で、そしてずっとずっとカッコいいぜ!大人の事情感漂うラストのシングルメドレーだけは頂けないが、長らく日本のファンク番長はダウナー系もいいところのスガシカオが張ってきたので、たまにはこんな無闇にアッパーな御仁が降臨されるのも僥倖かなと思ってみたり。
シャーラタンズを追いかけ始めたのは『Us And Us Only』からで、バンドの歴史やメンバーの変遷にはとんと通じていないうえ、前作『Wonderland』の露骨な南部ソウル路線に思いっきり引いてしまった人間としては語れることはあまり多くないのだが、それでもこのアルバムは文句なく「素晴らしい!」と言い切れる。オーシャン・カラー・シーンの新作と平行して聴いていたのだけど、どこまでもモッズ&ダディ・ロック一本槍なOCSに比べて、彼らが紡ぎだす音の何と瑞々しく、若々しいことか。いや、OCSは嫌いじゃないしおっさんロックは大好きですけど、キャリアを経るごとにこれほどイン/アウトプットの差が開くのは残酷だなァと感じるわけです。
幕開けの「Up At The Lake」から、ブリティッシュ・ロックの骨頂とも言える開放的なギターに泣かされるのだが、続く「Feel The Pressure」の、もろフロア仕様なトラックに前作からの流れを引き継いだ濃厚なファルセットが絡むユニークさが白眉。デビュー以降、一貫してUKバンドならではのグルーヴや黒っぽさを追求してきた彼らだが、その試行錯誤の過程が、本作では見事に「うた」を活かす血肉として脈打っているのだ。ここらへん、前作では黒人音楽への傾倒が過ぎるあまり置き去りにされがちだったメロディーも、ニュートラルな響きを帯びた豊かなものへシフトしており大いに好感触。アルバムの佳境を彩る「Try Again Today」は、シャーラタンズ史上でも指折りの牧歌的な美メロが“もう一度今日を生きよう/胸の内を明かすために/より良い明日を祈り/新しいスタートを切ろう”と清新な決意を歌う名曲で、もはやベテランの域に達した彼らがこれを奏でるところに感動がある。何よりリズムの踏み込みがUKロックには希有なくらい力強くて、グルーヴをおろそかにしないバンドほど「うた」を錆びつかせないのだと痛感しましたよ。グラスゴーあたりのヒョロい“繊細ちゃん向け”ネオアコくずれバンドとか、聴けなくなってきたもんなァ、最近。
以前のシングル「夢の花」からはあまり感じ取れなかった、バックホーンらしい荒削りな切迫感や攻撃性は徐々に復調しつつある。刺々しいリフの疾走感に生への渇望を刻む「コバルトブルー」、タンゴの妖しいリズムで艶めかしく歌い上げる「白い日記帳」、一転ヘヴィロック調の輪唱が意表を突く「カラビンカ」と、三曲三様に表情を変えながらも、おどろおどろしい世界観とアイデアの詰め込まれた曲構成は健在。
ただGOING UNDER GROUND「サンキュー」の気負いない新境地を聴くと、やはり彼らの作風自体が手詰まりに来ている感は否めない。そもそもTHE BACK HORNというバンドはメロディーやソングライティングにそれほど引き出しがある訳ではないので、異形の詞世界や雑食的なサウンド構築によって常に音楽性の幅を広げる必要があったのだが、ストレートなロック指向によってそれらが薄れると、どうしても楽曲の単調さばかりが目についてしまうのだ。加えて横ノリへの視線がほとんど感じられないため、ともすればアジカンみたいな加工品っぽい舌触りになりがちで、全体に変化への意志は感じられるものの、ベタ踏みなままエンジンが空回りしているような印象を受けるんだよな(あ、何かこう書くとアジカンを悪の枢軸のごとく敵視してるみたいですが、その通りです)。とはいえ、「コバルトブルー」の“変わらねえこの世界/くだらねえこの世界/そんなこと誰だって/ガキだって知ってるさ”と吠えるギラついたまなざしには、無条件に胸をつかまれてしまうのだけどね。
あやのー!あやのー!あやのー!あやのー!あやのー!あやのー!あやのー!あやのー!あやのー!あやのー!あやのー!!
・・・すいません、あくまで冷静さを保つために、ちょいと己の内なるリビドーを解放してみました。ていうか、し過ぎました。あやのかわいいよあやの。もうこの時点で書きたいことの8〜9割は出尽くしたんですけど(早いなオイ!)、紙幅も余ってるようですので少しばかり蛇足を加えさせていただきます。
京都のウクレレ眼鏡娘こと俺の嫁、もといつじあやの嬢のカバーアルバム。往年の歌謡〜フォーク〜Jポップからの選曲がほとんどですが、まずスタジオ盤の『tokyo side』は、原曲との距離の取り方が絶妙ですね。つじあやのの特質というのは、高度に洗練されたAOR的洒脱サウンドと、余計なクセや情念を込めず朗々と歌い上げるヴォーカルが織りなす風雅な味わいだと思うんですが、それらと原曲を結びつけるアレンジにとても才が利いており、本来の趣きを活かしつつも実につじあやのらしい切り口に仕上がっています。たとえば涼やかなボッサ風味の「黄金の月」なんかも、スガシカオ独特の屈折や倦怠を払い落としつつ、原曲の切なげな空気感はしっかり息づいているし、一転ピアノの弾き語りで聴かせる「ラブレター」は、原曲が持つ男の子の朴訥さ・純情さがみごとに女の子の切実さへと翻案された、胸の苦しくなるようなスロウバラードで、どれもつじあやのでなければ出せない情感が匂っているのが素晴らしい。それに比べると『kyoto side』はあまり聴けてないかな。京都でのライブをそのまま収録したものなんですが、いかんせんリズムやアレンジの彩色が無いに等しいので、ウクレレの小さな音だけで染み入らせてしまうヴォーカルの透明な響きには驚嘆しつつも、やや通して聴くには平坦すぎるかな、と。あとみんなには言ってなかったけど、実はあやのと俺って夫婦じゃん?だからあやのが京都で歌ってるの聴くと、そこにあやのがいないのが淋しいんじゃなくてそこにあやのがいないと思うことが淋しくてやりきれなくなるんだよね〜。ハッハッハッ!(破綻していく妄想絵図に怯えながら)
さてと、それじゃあみんなも各自『COVER GIRL』を聴いて「この曲をカバーしてくれないかな〜」と想像にふけってみたり、妄想が高じてトリビュート短編を書いたりしてる俺を存分に気持ち悪がったりしてみてくれ!じゃあな!涅槃で会おうぜ!
ぎゃーっ!これ、6月の渋谷AXで披露された、当時はタイトルも未定だった新曲じゃないっすか!感涙ですよ感涙。こういう瞬間に巡りあうと、音楽リスナーやってきて良かった、と心の底から思います。
思春期のボーイ・ミーツ・ガールを歌うGOING UNDER GROUNDの最高潮が「トワイライト」であるのは、チャート的にもファンの側から見てもほぼ疑いのないところで、それだけに新曲をどう仕上げてくるかは興味津々だったのですが、「トワイライト」の昂揚からやや“引き”の視点で日々の感謝をさらりとすくい上げる気負いのなさはさすがにクレバー。そんな中にも文系男子ロックの切なさ必殺兵器・四つ打ちビートを柔らかに溶かし込み、ニュー・オーダーを思わせるキラキラしたディスコ・サウンドをさりげなく散りばめて新境地をアピール。装飾こそ派手ではないものの、“泣きたい時に泣ける強さが/どこかでかならず僕らを守りつなげる”という静かな決意と優しく視界を広げたまなざしに、背伸びではない成長が感じ取れる充実の一枚です。青春大好き!
ここのところビースティー・ボーイズの新作を聴き込もうとしてたんですが、どうも内容に入っていけなかったんですよ。体系づけられるほどヒップホップを聴いてるわけではないので原因はつかめないのだけど、どうも俺はラップを喋りではなく「歌」として捉えていたみたい。最近ヒットしてるKREVAの「音色」なんかもそうですが、俺は「歌」を強く意識して曲やサウンドを構築していくラッパーを好みますね。その中でも惚れ惚れしそうなほど中毒性の強いフロウを紡ぐのが、ドクター・ドレ&エミネムの肝煎りでデビューし、2003年の米ヒップホップを席巻した50セント。実際に元ギャングで何発も銃弾を喰らったという仁義なき経歴の持ち主らしいですが、そんなダーティーでバイオレントな触れ込みとは裏腹に、そのラップは非常にスウィートです。とろけそうです。ドレ師父お手製の大ヒット「In Da Club」を筆頭として、どの曲にも聴けば一発で口ずさめるような甘いフックがこれでもかと詰め込まれており、ラップをまったく意識することなく聴き通せます。トラックもリズムの骨組みだけを残した簡素な作りですが、要所にメロディアスな仕掛けが施されていて、JAY-Zがコールドプレイやジョン・メイヤーを愛聴しているのが伊達ではないように、現在の米メインストリームのヒップホップ・ソングは「歌」としても文句なく一級品なんですよね。こういうのを聴くと、件のビースティーズはポップ・ソングとしての耐性が低いように思えてきちゃうんだな。「歌」だけではなく、曲作りの発想もまた秀逸で、たとえばネイト・ドッグの参加した「21 Questions」では、女の子に“俺が撃たれて傷ついても、そばにいてくれる?”などと次々問い掛けていく形式を取っているのだが、質問が進むに従って次第に真摯な告白へ移り変わるというアイデアがまず目新しいし、何より女の子にアピールする純なラブソングというのが素敵じゃないですか(質問の内容は物騒きわまりないけどな)。2パックしかりLLクールJしかり、胸キュンなラブソングが書けるのはグレイトなラッパーの証なので、ぜひともJAY-Zのように頂点を突っ走り続けていただきたい。いやほんと、このクールに磨き上げられたポップ・ソングの数々に触れると、どうも昨今のギターロックへ食指が伸びませんわ。
先行シングルとなった「矯正視力〇・六」が素晴らしい。eastern youthのパブリック・イメージを真っ向から裏切る曲だと思う。彼らの身上である、爆発炎上する轟音ギターも、喉から血を振り絞るような絶唱も、ここにはない。スロー・テンポの染み入るような曲調に、フォーキーな優しさを帯びた吉野寿のヴォーカルが訥々と響く。小谷美紗子による叙情味あふれるピアノ&コーラスも、この曲の穏やかで切ない雰囲気にしっとりと花を添えている。いわゆるエモやパンクに分類される曲ではないが、しかしこれは十分にエモーショナルな訴求力をまとった名篇である。エモの形骸に何の疑問も抱かずにいるアジカンの如きハイプには、百年経ってもこんな曲は作れまい。
「矯正視力〇・六」への流れが示すように、全体のトーンはそれほど変化していないものの、リズムの性急さにはややブレーキが掛かっている。そのためエモらしさは少し薄れた感があるが、かといってイースタンの純度が薄れたわけじゃない。スピードを減らした中に、静かに燃える生命力、力強く躍動するバンドサウンドの血と肉と骨を感じ取って欲しい。リズムを落としたことが、単なる後退ではなく、詞と曲をまっすぐに突き刺すためのギアチェンジだとわかるはずだ。詞作がより平易な口語調に近づいているのも同じ理由だと思う。パンクだとかエモだとか、そんな様式なり理念なりが音楽を束縛するのなら、そんなものは躊躇なく蹴り捨ててしまえばいいのだ。ゆえに、ここで鳴っているのは、感情を震わせる、ただただ裸のロックンロールである。素晴らしい。
前作『jupiter』から2年半ぶりとなる、BUMP OF CHICKENのメジャー2ndアルバム。「地味になった」「遅い曲ばっかり」とか言われてるが、もともとこの人たちは初期の『FLAME VEIN』から平気で6〜7分の曲を作ってたわけで、それに比べればこのアルバムはほぼ5分前後と、むしろ短くなっていることに注目したい。俺の評価軸として「曲はコンパクトなほうが良い」「ミドル・テンポの曲こそロックバンドの正念場」というのがあるので、今作の変化には大いに賛成だ。ギター・サウンドの音圧が減った分、アレンジの豊かさ、柔らかみが素直に出ているのも好感触。逆に言うと、『jupiter』は、ギター重ねすぎ&アレンジが平板だったりして、聴きづらい部分もあったんですよね。
楽曲の構成は基本的にこれまでのバンプを踏襲しているけれど、大きく作風を異にするのはやはりその詞作。自分や他人の弱さを受け入れ、その傷や痛みを丁寧にすくい上げながら、そっと心を前へ押し出してやろうとするナイーヴな優しさがややうつむきがちになり、そのかわり弱さの裏側にある「甘え」や「怠惰」を指弾するようなとげとげしさが前に出ている。もちろんどの曲も「ラフメイカー」のように対話への希望を捨てておらず、言いっぱなしな投げやり感はないものの、それでも冷や水を頭から浴びせかけられた気分になる人は多いとは思う。「優しさ」というものが、ややもすれば互いの痛くない箇所を撫でてやり過ごすだけの欺瞞を孕んでいることは多くて、そういった生ぬるさに対する反発というのは自分もよく感じるし、それは彼らの若さゆえの厳しさだと思うから、特に引っかかりは覚えない。ただ、バンプが声高に叫ばずとも、弱者の吊し上げを正当化するような物言いはすでに世の中に溢れているんだよ。そのことは頭の片隅に押さえておいてほしい。優しさへすがることをはねつける姿勢は、心の弱さを切り捨ててしまう酷薄さと紙一重でもあるからね。
「ギルド」や「レム」のような曲にショックを受けて、バンプから離れてしまう人が若いファンの中にいるかもしれないけど、そういう人は一度時間を置いてこのアルバムを聴き返してみてほしい。「弱さ」や「孤独」を後生大事に抱え込むんじゃなく、大切なものを何度もぶっ壊されて、それを懸命に作り直すことが大切だから(それは「ハルジオン」のテーマでもあるし)。俺はこの作品で人生観がひっくり返されるような経験ができる人を眩しく思うよ。トシを食うごとに、傷ついたりどん底に落とされたりするような表現に対するガードが固くなっていくのを実感してて、それはすごく寂しいことに思うしさ。
全編佳曲ぞろいなのだけど、欲を言えば後半にもう1曲、ガツンとくる曲を入れてほしかったかも。たとえばTHE BACK HORNの『イキルサイノウ』のように、「ジョーカー」で窒息寸前まで聴き手を追いつめて、「未来」でふっと儚い解放感の中に放り出す圧倒的なダイナミズムに触れると、「fire sign」「太陽」と順当に穏やかな曲を並べてから「ロストマン」に繋げる流れはやや予定調和にも感じられてしまう。まだ聴き込んでる途中だし、噛みこなした後ではまた印象が違ってくるとは思うのだけどね。
わはは。前作『リバティーンズ宣言』では、妙に小綺麗に洗練されたパンク・サウンドや過熱するガレージ/ロックンロール・リヴァイヴァルへの反発もあって、「パンクスならあり得ない量の静脈注射で脳ミソとろかした後、死んだ眼をしながらヘタクソこの上ないギターを弾くべきだ」などとファンに刺されても文句を言えないような暴言を吐いたのですが、その後度重なるバンドのトラブルに暗雲が立ちこめてきたなぁと思ってたら、何と俺のイチャモンをバカ正直に叶えたようなアルバムを作ってきやがったのでびっくりしたよ。そんな無理難題に付き合ってくれなくていいよ!こっちが本気で心配しちまうじゃねえか!
ピートもカールもお互いの愛憎でズタボロだわ、サウンドは前作の見る影もないくらいヨレヨレだわで、バンドの惨状が一発で伝わる気息奄々ぶりなのだが、その寂寥感溢れる枯れた詩情と、相反して涙が出そうなほどすさまじくキレのいいドラムによって、高純度のポップ成分が保持されている。むしろ勢いが無くなってサウンドのテンパり具合が削げ落ちたぶん、メロディーの愛くるしさをよりロウな肌触りで堪能できるのである。そっけなくフレーズを弾いてるだけに見えて、軽やかにツボを押さえまくる端整なギター遣いも見事。ピート脱退後のシングル「Don't Look Back Into The Sun」でカールのメロディメイキングの才は十分つかめたが、それでもピートの存在なしにはこの“ラブ&ヘイト・ソング集”とでも名付けたくなるような哀切さは出なかっただろうし、バンドの崩壊が、期せずしてロックの刹那的な破綻美を呼び込んだアルバムという感じですね。何だか休止直前のピーズを思わせるものがあるなぁ。美形のモリッシーとジョニー・マーがじゃれあっているようなデュエット曲「Can't Stand Me Now」は必聴。これが今年もっとも胸に刺さったラブソングだというのは、いろんな意味で異様だ。
いずれにせよ実力は間違いなくあるのだから、次はもっともっとポップに詰めていかなきゃ駄目だよ!売り上げ激減なら諦めもつくけど、それほどセールスが落ちてるわけでもないんでしょう?なら支えてくれるファンを裏切っちゃいけないよ。そりゃ俺はこのアルバム好きだけどさ、さすがに三匹目のドジョウが通るほど世の中甘くないだろうし、チャンスも才能もなく泣いてる人は数えきれないくらいいるんだから、その両方を手にしてる彼ら(というよりピートか)が音楽に不誠実であることは許されない。1曲でも多くポップ・ソングが産まれることを祈ります。
傑作『Free All Angels』から3年ぶりとなる、アッシュの4thアルバム。「サウンドがよりヘヴィに進化!」という謳い文句が示すとおり、USモダン・ロックを意識した荒々しいギターリフと怒濤のドラミングが暴れまくる。もともとブリティッシュ・ロックらしからぬHR/HM気質の骨ばったガタイを誇るバンドでもあり、それがUSモダン・ロックへの接近によって一気にビルド・アップされたのだろう。オープニング「Meltdown」で聞ける、アンプにシールドをぶち込み“Ready?”“Yeah!”と交わすコール&レスポンスが実に無邪気かつバカバカしくてよろしい。
「ここにきてモダン・ロックへ転身する意味があるのか?」という疑問も呈されているようだが、個人的な見解としては、ポップと真正面から向きあおうとするミュージシャンであれば、(市場セールスへの展望も含めて)アメリカの音楽シーンを視野に入れるのは当然だと思う。リズムの精緻さやメロディーの高機能性など、ヒップホップやモダン・ロックから学ぶべきことはUKロックにも山ほどあるし、たとえばLifehouseなんかを聴いて、「これと渡り合ってやる!」ぐらいの気概がなければウソだ。その点からしても、アッシュの選択はまったくもって正しい。
ひるがえってスネに傷なのは、ミドル・ナンバーに名曲が少ないことかな。メタル・リフのゴリ押しにメロディーが殺されてしまっている「Clones」に顕著なように、音圧の向上へのめり込むあまり、メロディーの強化がおろそかになっているのが惜しい(「Shining Light」のようなキラー・チューンが生まれてないのも、これが原因だと思う)。逆に音の押し出しに緩急をつけて蠱惑的なアレンジを配した「Evil Eye」が新たな魅力を開花させている(シャーロット姐ゴのコーラスが激キュート!)のを見ても、楽曲がサウンドの強度に力負けしている部分があるため、結果的にメロディーが後退したような印象を与えてしまうのも事実。ヘヴィ・ロックを聞き慣れてるオレからすれば、このアルバムは十分にメロディアスだし、むしろ「音をもっとヘヴィに!」と切望してしまうぐらいなのだが。「ロミオとジュリエット」に材を取った「Starcrossed」もヒット・ポテンシャルの高い泣かせるバラードなんだけど、あまりこっちの路線にかまけないように願うなぁ。バラードで一発当てちゃうと、悪い意味でボン・ジョビ化が進んじゃうバンドも多いからさ(あ、BON JOVIは好きですよ。念のため)。ミドル・テンポで聴かせる曲が増えることは、バンドの成熟や力量の向上とほぼイコールだけど、それと構成がメロウなバラード曲に片寄ることとはまったく別だからね。まだまだ円熟や老成とは無縁なバンドだと思うので、このへんの反省点を踏まえつつ、次作もロッキンにぶっ飛ばしてほしいです。
米ヒップホップ界随一のプロダクション・チーム、ザ・ネプチューンズことファレル・ウィリアムズ&チャド・ヒューゴが、友人のシェイ(って一応ト書きどおりに説明してみたけど、誰よ?)を迎えて製作したアルバム。ちなみにこのユニットは、昨年JAY-Zをフィーチャーした「Frontin'」でヒットを飛ばしている。
その「Frontin'」の印象が強かったせいか、当然ヒップホップ色の強い作品を予想していたのだが、意外にもヒップホップの要素はほとんど感じられず、スライ〜プリンス直系の密室ファンクが濃厚に匂い立つ仕上がり。初期ストーンズを思わせる、まがまがしいエロ声がねっとり絡みつく「She Wants To Move」、一転ストリングスを織り込んでナイーヴに歌い上げる「Drill Sergeant」など聞き所は多数。
ただ、ヒップホップ色を排したアレンジが功を奏しているかというと、やや微妙なところがある。グッド・シャーロットのマデン兄弟やレニー・クラヴィッツの起用からも明白なとおり、彼らのロック・ミュージックへの傾倒は相当なもので、それがロック・リスナーにも受ける図太いポップさを生んでいることは確かなのだが、楽曲がファンクを志向している以上、サウンドをロックと同じ感覚でべったり塗り潰してはイカンでしょうと。
ファンクの醍醐味とは、サウンドの装飾をできるだけ抑え、リズムの弾性によって力強く歌を響かせることにある。これは後のヒップホップにも通ずる美学であり、だからこそかつてのネオ・クラシック・ソウルと呼ばれたミュージシャンたちは、積極的に70年代のソウル/ファンクとヒップホップ・サウンドを混淆させていったわけだが、N.E.R.D.にはこうした視点がいまいち稀薄(というか、切り捨てた?)なせいか、ギター・サウンドの重ね方などに無頓着な部分が多く、全体として音像のクールネスに欠ける印象を持った。これだったら、殿下の最新作のほうがよほど先鋭的に黒人音楽の現在を見つめているし、もっと単純にR&Bのアルバムと捉えても、R.ケリーやディアンジェロのほうが、リズムの鋭さもメロディーの質も数段上じゃないか?
嫌いではないけど、ネプチューンズのブランドとおしゃれイメージに多くを負うアルバムだよなぁ、とは思いましたね。
ネガティヴな意味に取らないでほしいんだけど、シロップ16gというバンドに“ロックの希望”とか“絶望からの再生”といった大仰なコピーを冠するのは、彼らにとって荷が重すぎるんじゃないか。ここまでシロップの曲を聴いてきて実感したことだけど、フロントマンであるvo.五十嵐隆の資質というのは、すぐれたシンガーソングライター、特に弾き語りをルーツとする歌い手のそれであり、決してロックンロールを志向してるわけではない。サウンドに対するアプローチがアルバムごとにバラバラなのは、五十嵐自身が“ロック的サウンド”に拘泥していない証拠だ。ただ、五十嵐隆の紡ぐ詞世界が、通常のシンガーソングライターが持つ価値観とかけ離れているため、結果的にロック的サウンドとして表出されざるを得ない、ということだと思う。
本作でも、冒頭の「実弾」のような狂騒スウィング、あるいは「回送」「リアル」といった現代ふうの音像処理が施された曲より、ギター1本でメロディーを構築したような「うお座」「夢」の方がはるかにダイレクトに刺さる。本来、五十嵐の楽曲に映えるのは、P.J.ハーヴェイやエイミー・マンのような、オルタナ以降のヘヴィな質感を伴ったアコースティック・ナンバーなのだろう。しかし、バンドが叩き出すロック的サウンドの鋭さと、相反するようにひょうひょうとした作曲/歌唱の間に生じる孤絶感や不安定さに、聴き手が自身の悩みや恐れを投影していることもまた事実であり、それを「ロックの物語」として肯定的に捉えるか、「不幸な齟齬」として退けるかは難しい問題である。ただ俺の実感として、五十嵐隆は純粋にポップ・ソングを追求する音楽職人であり、そこに広がる絶望や諦念がたとえ個人の内実に響くものであっても、彼は誰のために歌っているわけでもなく、その詞が誰かに向けて書かれたものでもない、ということは確認しておくべきだと思います。聴き手が、苦悩や思い入れをアーティストの内面に仮託するような、いわゆる“ロック語り”とは最も遠い位置にある音楽だから。そのカタルシスの無さに「ロック」を感じる人もいるかもしれないけど、それはやっぱりねぇ、豊かな結果を生まない気がするんですよ、俺は。
1曲目「Lola Stars And Stripes」のイントロから、「エ、エコバニや!ニューオーダーやぁ〜!」と80年代の残影にのけぞること必至。儚げに響きわたるシンセの旋律、そして鋭く、時に重苦しく突き刺さる陰翳を帯びたギターラインと、そのサウンドは濃厚なポスト・パンク〜ニューウェーヴの香りに満ちており、とてもカナダ出身の新人バンドとは想像がつかない。ザ・ラプチャーやフランツ・フェルディナンドのブレイクでも感じたことだけど、もしかして今は80'sリバイバルが旬だったりするんですかね?
ただ、ニューウェーヴに憧れる若手バンドの多くが、スノッビィな音像やギター遣いのスマートさへ目を引かれがち(フランツ・フェルディナンドもこの点が不満)なのに対し、彼らは専らソングライティングの達者さを先達から引き継ごうとしているのが好ましい。そのため、あの独特のギターの鳴りや、シンセサイザーが奏でる音との接合にもほつれが生じず、ニューウェーヴらしい冷たい昂揚感、幻想的な耽美さをきちんと再現できているのである。でもヴォーカルはトム・ヨークとかフラン・ヒーリーみたいな、か細く囁きかけるような声なので、それほどニューウェーヴを聴いてない俺でも馴染みやすい感じ。「世界の不穏さに苦しむ神経症な文学青年」そのままな歌詞世界も実にニューウェーヴっぽい。あのへんの「明日にも世界は終わっちまうんだー!」的な儚さって、80年代当時の核恐怖や終末不安と密接に繋がってたと思うんだけど、9.11以降の世界情勢っていうのは、それをまた身近にさせつつあるのかもしれないなぁ。
うぉおおお!!激烈にロックンロールだぜぃ!実はくるりの『アンテナ』について書こうとしていたのだが、これを爆音で掛けてたら、そんな考えは跡形もなく吹き飛んじまった。あんなクソ地味アルバムちまちま聴いてられっか!!(暴言)
前作『010』では、シーケンスの限界まで引き上げられたデジタル・ビートがメロディーの起伏を削いでしまったような印象を受けたが、今作はリズム面の押し出しをやや弱め、やけっぱちとも思えるほど流麗なコーラスやSEを盛り込むことで、サウンドのポップさをばっちり補強している。こうした方法論は、『LILY OF DA VALLEY』で大幅にヘヴィ・ロックへ接近したDragon Ashが、マッドのお株を奪う形で「Bring It」「Revolator」などの曲に結実させていたのだが、後続のDragon Ashが『Harvest』というメロディーを置き去りにした作風に走る一方、本家のマッドがパワーポップばりのどキャッチーなメロディーでフォロワーを抜き去ったというのは、何とも痛快かつ皮肉な話だ。
要は、キャリアの違いである。大概のロックバンドが打ち込みに手を出して失敗するのは、機械によって増幅された音圧を、バンド自身が制御しきれず持て余してしまうためであり、インダストリアルやブレイク・ビーツといったマシン・ビートを貪欲に吸収し、その扱いに習熟してきたマッドだからこそ、強化されたリズムに耐え得る美メロを鳴らし、快楽のツボを心得たノイズ/コーラス/シーケンスを絶妙な構成で配することが可能なのだ。ちょろいエレクトロニカでサブカル層を騙しまくってるスーパーカーは、全員爆音で必聴のこと!
昨年大ヒットを飛ばした、アウトキャストによる2枚組アルバム。かねがね評判を耳にしてはいたんですが、実際プレイヤーに突っ込んでみると、予想のはるか上をいくブッ飛びっぷりに興奮しきりですよ。こーいう音楽を当たり前のように産み落としちまう米ヒップホップの土壌って、ほんと驚嘆そのものですね。
思うのだが、ポップ・ミュージックの歴史とは、常に黒人音楽がその発祥だった。しかしそのままでは一般受けしないので、黒人音楽に触発された白人が、自身の伝統であるフォーク/トラッド音楽でマイルドな味つけをして商品化したのが、現在に至るまでのロックでありポップスと言っていい。
が、白人が黒人音楽を漂白し続けることには、常に大きなリスクが伴う。黒人音楽の源泉である「肉体性」や「快楽主義」というものは、白人的な洗練を経るうちにすり減ってしまうのだ。これは、初期にはR&Bやブルーズに影響された無邪気なポップ・ミュージックを演っていたビートルズが、やがてサイケ〜プログレ的な“前衛性”へと傾いていった経緯を思い浮かべてみればわかりやすい。多くの白人ロックバンドは、かつて熱狂した黒人音楽よりも、よりヨーロッパ的な抽象や思弁に流れていく。最近ではブラーの『シンク・タンク』がその最たるもので、あのアルバムに溢れる辛気臭さといったら、黒人音楽の昂揚がインテリ白人の鬱屈に回収されていく図式そのものだ。
アウトキャストが素晴らしいのは、(出自がヒップホップである彼らには当たり前のことだが)こうした白人音楽の呪縛に囚われることなく、奔放な創造性の赴くままに「前衛」の領域を突き進んでいる点である。ビッグ・ボーイによる『Speakerboxxx』は、ビートルズの『ホワイト・アルバム』、あるいはクラッシュの『サンディニスタ!』に通ずるカットアップ技法を、ヒップホップの方法論によってわずか50分のレコードに収めてしまった内容で、そうそうたる客演と奇天烈なアイディアを随所に組み込みながらも、『ホワイト・アルバム』や『サンディニスタ!』が持つ冗長さをまるで感じさせない。一方、アンドレ3000の『The Love Below』は、絶頂期のプリンスがオーヴァードーズ寸前で作ったような、濃密かつ狂ったエロティシズムが炸裂するアルバム。ジャズやPファンク、ニュー・ソウルといった過去の遺産を惜しげもなく食い散らかし、目もくらむような曼陀羅絵図へと編み上げていく破天荒さは全くどうかしてるとしか言いようがない。そしてもっとも大切なのは、これだけ好き勝手な作品×2を作り上げておきながら、ちゃんとポップ・ミュージックの舞台で渡りあえるクオリティを堅持していることだ。野蛮で、官能的で、それでいて瀟洒なウィットと知的スリルに満ちていて・・・ヒップホップというジャンルの精髄に触れた気持ち。心底から感服いたしました。
ちなみにグラミーを受賞した脳天気なパーティーチューン「Hey Ya!」で、ビヨンセやルーシー・リューの名が出てくるのだけど、やっぱりこの2人ってアメリカ人的には“いかした女”なんですかね?アチラとの美的感覚の深い断絶を感じるわ。
うーん、聴く前からうすうすと危惧を感じてはいたのだが、やはりTHE BACK HORNにとって、『イキルサイノウ』という壁を越えることは難しいのだろうか?というのも今回の新曲、「夏草の揺れる丘」や「花びら」などを思わせる、彼ららしい武骨な優しさが光る佳曲なのだが、それがどうも響いてこないのだ。過剰なものがない、と言ってもいい。“いつの日からだろうか/こんな風に上手に/人混みを歩く/靴を履いたのは”かつての荒れ狂う感情を惜しむかのように安らいだ詩情と、それに呼応する、たおやかな稜線を描くサウンドスケープ。まるで「大人になりましたから」とでも言いたげな、品の良い「成熟」の香りすら漂っている。
しかし、まだ20代も半ばのバンドが、前作や前々作でものにしたスキルの範疇で、そんな「成熟」や「品の良さ」をアピールされても困るのだ。いや、『困るのだ』なんて、迷惑なファンまるだしの言いぐさで恥ずかしくなってくるけど、しかし彼らの特異さというのは、ナイーブな“内面”という安全圏に閉じこもりがちなロックに対して、ささくれだった感情を“外界”へ叩きつけていく、他に類を見ない直截性だったはずだ。が、この曲にはそうした外部への視線は稀薄で、内面だけで感情の起伏が完結してしまっている。ゆえにウェルメイドではあるけれど、広がりのない、外へ伸びていくことのない「優しさ」だけが、卓越したヴォーカルと演奏によって包み込まれ、甘やかな気分として留まっているに過ぎない。それは、一見「優しそう」ではあるけれど、現在進行形の痛みや傷を受け入れることのできる「優しさ」とは似て非なるものだと思う。これに比べれば、BUMP OF CHICKENの「オンリー ロンリー グローリー」のほうが、ずっと大人の視点で「他者」や「社会」を見つめている。しっかりしてくれよ。
わ、若い!“カウンターカルチャーなんか蹴っ飛ばせ!”と題された、英国人の、英国人による、英国人のためのネオ・モッズ・クラシック。ロックでこんな爽快感を味わえたのは久しぶりだ!
サウンド的には、何てこたーない、ザ・ジャム〜オーシャン・カラー・シーンの系譜を継ぐ、由緒正しきモッズ・バンド。つまり、それこそ「イギリスの『普通の少年』がロックを鳴らせばこうなるだろう」と予測のつく、きわめてスタンダードなロックンロールなのだが、その凡庸さを補って余りあるのが、溢れかえらんばかりの青臭い情熱と、いかにも英国人らしい、シニカルで歯切れの良いメッセージの数々。小難しいレトリックや専門用語でケムに巻こうなんつーセコさは微塵もない、中学生レベルの英語力でも把握できる明快さと、それに比肩しうる瑞々しい批判精神を備えている点が何より気に入った。
冒頭、トランペットが凱歌のごとく高らかに響きわたる表題曲「Over The Counter Culture」だけで、このバンドのアティテュードは十二分に伝わるはずだ。以降に語られていくのは、インターネットに溺れ、消費文化の毒に染まり、身勝手なくせに自分だけは可愛がろうとする、21世紀に生きるぼくたち自身への痛烈な批判である。そのリリックの投射範囲はとても身近だけれど、誰かの揚げ足を取ったり、背中へ向かって毒づくような、みみっちいネガティヴは皆無。“もっと力強い生活をこの手に!”そう胸を張る強靱な意志こそが、現状突破へのエネルギーに繋がるのだとストレートに叩きつけてくるアルバムだ。
黒っぽさの掘り下げかたが何とも中途半端(スペシャルズのカバーが単なるスカパンクの域を出てない点は痛い。クラッシュやジョン・ライドンがなぜダブやレゲエへ傾倒したのかを考えるべき)だったり、シングル曲との落差が明白だったりと、不安要素はいくらでもあるのだけど、ロックバンドの1st作としては申し分のない出来だと思う。次なる課題は、ここまでメッセージを十全に伝えきった後に何を作るかですな。おそらく今後ついて回るであろう批判や中傷に負けず、さらなる高みを目指してほしいものです。
前作『冬空と君の手』から約2年ぶりとなる新作。新人バンドとしてはかなり長いスパンだと思うんですが、その空白を埋めるに足る、充実した成長ぶりが窺えるアルバムですね。彼らのような「生の気持ち」を歌うバンドって、打ち込みとか新機軸の導入でわかりやすい“変化”を見せられないから、「前作との違いをどう示すか」というのはすごく苦しい課題だったと思うんですよ。でもこのアルバムは、バンドの人間的成長が、曲のスケールや心情表現に自然に表れてて、かなり理想に近い形でその課題を乗り越えられてるように感じます。
出だしの「ヒカリ」なんかが特にそうで、穏やかなアルペジオとコーラスを織り込んだ優しい手触りは、『冬空と君の手』では決して聴けなかったはず。ピアノを取り入れた曲もあったりして、彼らの音楽的フィールドが着実に広がっているのが伝わるのだけど、それ以上に大切なのは、ことさらに「変化を見せよう」っていう小細工を弄してないことだと思うね。陳腐な言い方かも知れんが、「ありのままを叩きつけたら、結果として変化が映し出された」って感じ。メロディーもエモ一辺倒ではない、非常に練られた感のある佳作ぞろいで、これは間違いなく2年の空白がプラスに働いていると思う。タテノリに何の疑問も持ってない若僧バンドを聴いてみればわかりますが、ピーズしかりエレカシしかり、ミドル〜スローテンポの曲をじわりと聴かせる手腕ってのは、存外に年季と円熟が要るものなんですよ。そこらへん、ちゃんと経験を積み重ねてるなーと思う。俺も頑張らねば(何だいきなり)。
「列車」や「誰かはいらない」など、シングル曲の配置も適切で、全体を通して聴ける好盤に仕上がってると思います。個人的に、スターセイラーの1stから2ndへの変化に触れたときと同じような親近感を覚えましたね。
新曲好調&新アルバム発表間近ということで、にわかにバンプ熱が再燃しております。俺、JAPANで異様に盛り上がってたころ(もう3〜4年くらい前になりますか)にこのアルバムを聴いたんですけど、「グングニル」や「K」には感動しつつも、全体としてはあまりピンとこなかったんですね。当時はなぜなのかわからなかったけど、最近改めて聞き返して、ようやく合点がいきました。
このアルバムの曲って、とにかく「暗い」んですよ。1st作の『FLAME VEIN』は、微笑ましいほど無邪気に「純粋さ」を賛美していたけど、『THE LIVING DEAD』は、そういう「純粋さ」が世の中の偏見や悪意に敗れていく様を克明に描いている。「続・くだらない唄」なんて、初めて聴いた時は「何で首吊りなの?」っつー疑問しか浮かばなかったけど、今聴くと、失意のうちに故郷へ戻って、ふと死を考えるまでの気持ちに、すごく納得がいくんだよね。それはおれが幾分トシを食ったせいもあるかと思う。「グングニル」や「K」にしてもさ、無謀な夢を見る若者や、親友のために命がけで走る黒猫よりも、彼らを嘲笑い、石を投げつける人間のほうが自分の側に近い、と痛感してしまうもの。なし崩しに現状を追認し、打算や保身のために大切なものを投げ捨てて「大人」のフリをすることがいかに安易な堕落であるか、そしてその中で他者との絆を信じ、夢や理想を貫こうとすることがいかに孤独で絶望的なたたかいであるか、と問うバンプの視線は、最新曲「オンリー ロンリー グローリー」に至っても何ら変わっていない。バンプのファンって十代の子が多いのかもしれないけど、これは社会に出て(ってまともな社会人でもない半端モンの言うことでもないですが)挫折を味わったときにこそ深く響き、再び立ち上がる力を湧き上がらせてくれる作品だと思います。大切に聴き続けていってほしい。
断言してしまおう。BUMP OF CHICKEN、「天体観測」以来の快挙である!いや、この2年間、スローペースながらも着実な成長を遂げてきた彼らだけど、その実、ファンや音楽好き以外には届きにくい佳曲が続いていた気がする。一般リスナーの「あぁ、『天体観測』いいよね」というお決まりの相槌を打破するためにも、ここらで若手“ロック”バンドの筆頭たる気概を示さなければならない時期だったのだ。
軽やかなギターフレーズ&バックコーラスにのせて、“死んだ心をどうするんだ”“笑われることなく/恨まれることなく/輝く命など無い”とギリギリの叫びが疾走する。あともう少し音色がクリアなら、途端に全体が嘘臭く聞こえてしまうほど抜群のポップさ、清々しさに満ちたキラキラ感!「ロストマン」の重苦しい現実認識を踏まえつつ、「立ち止まるのがイヤなら、前進するしかないんだ」というテーゼを、暑苦しくなく、さりとて斜に構えることもなく、まず自分が真っ先に飛び出すことで示そうとする、その潔いダッシュスタート、その意気や良し。ひさしぶりにホレ直したぜ。
彼女のキャリアにとっては、おそらくジョン・レノンの「イマジン」に相当する曲。世界との緊張をナイーヴな個的関係に当てはめながら、“誰かの願いが叶うころ/あの子が泣いてるよ”という、シンプルで、それでいて残酷な人生の真実を歌う。誰かの幸せは誰かの不幸せ。それは隣のあの子でも、遠い戦地でも変わることはない。ジョン・レノンと言えば、Mr.Childrenの「掌」も明確に「イマジン」を意識している曲だが、あれがあくまでも外部からジョンの平和思想をなぞっているのに対し、この歌には、ジョンが「イマジン」へたどり着くまでに経てきた葛藤、それ自体を感じさせる切迫性がある。ピアノによる伴奏ですら、彼女の歌唱には蛇足と思わせてしまう凄みがあるのだ。「うた」が持つ絶対的な力に、久々に撃たれましたよ。
すごく「ファン」と「リスナー」の差異について考えさせられるアルバム。例えばこれが、ミスチルの新作のように「100万人のリスナーに向けたポップ・アルバム」として作られたのなら、大失敗としか言えない。しかし「1万人のファンのためのロック・アルバム」としてなら、これは誠実な作りだし、かなりの傑作と言っていいと思う。
というか、アルバムの空気感が、本当にエピック時代、特に『浮世の夢』や『5』そっくりなんですよ。厭世気分な文学青年が、荒川土手を散歩してる途中に浮かんだ鼻歌をそのままレコーディングしたような楽曲が目白押し(8分半もあるラジオアンフレンドリーきわまりない帰郷ソング「地元の朝」が最高)。でも歌の中に登場する宮本自身は、エピック時代とは時間も空間も大きく隔たっているわけで、そこら辺の所在なさが、例えば“化ケモノ青年”という自嘲めいたフレーズに投影されているのかな。弾き語り「傷だらけの夜明け」でしっとり締めるかと思いきや、いきなり「パワー・イン・ザ・ワールド」で血圧が120ぐらい上がってブチ切れる構成なんかも『5』っぽい。
エピック時代のエレカシというのは、それこそ1万から2万とかのセールスを上下してたぐらいで、当時の“宮本節”を楽しめる人ならど真ん中な出来かと思うんですが、「今宵の月のように」のような美しいメロディーも、前作『俺の道』のようなわかりやすい爆裂サウンドもないので、ファンじゃない人にはすごく薦めにくいですな。居間で流し聴きしてたら、家族に「おっさんがボソボソ歌ってるだけじゃん」とか言われるし、確かに言われてみればそのまんまだし、みたいな、でもファンからしてみればそれが最高なんですよ、というアルバム。またレコード会社から首切られないといいんだけど。
あとこの作品に頻出する「国家」や「歴史」への言及に、ここ数年巷間に広まりつつある保守的、右寄りな風潮を感じてしまう人がいるかもしれないけど、ファンの面目としてそれは違う、と弁明しておこう。宮本が語ろうとしているのは、自分が育った国の風土や歴史を遡ることで、己のルーツや政治との関わりを解き明かそうとする試みであり、安易な右派的思潮のように、国体や保守思想といった「大樹」へ寄りかかることで脆弱な自己を補填しようとする怯懦とは正反対のものである。日本の音楽全体に言えることだけど、特に若いロックバンドを聴いてると、すごく強い主張をしてるのに、自分がどこの国に住んで、どういう歴史を経て今の自分があるのか、という考えが稀薄なように思えてきて仕方ないんですよ。それはエレカシをずっと聴いてきた影響が強いのかな、と今さらながらに感じました。
蛇足ですけど、ジャケ写の元ネタって、もしかして「扉」と「ドアーズ」を引っ掛けたダジャレですか。そんな殺生な。こればっかりはフォローのしようがないほど脱力。
キャリア15年を経て、桜井和寿の驚異的な滑舌の悪さがますます加速するMr.Childrenの11thアルバム。誤解を恐れずに言うならば、これは「正しい焼き直し」に成功した傑作であると思います。惰性に屈しないセルフパロディと申しましょうか。彼らのようなベテランというのは、どこかで自己模倣を踏み台にしないと行き詰まっていく場合が多く、その隘路をかわしたという意味で、バンドにとっても幸福な作品になったのではないかと。
というより、ここ何作かのミスチルって、セルフパロディをひたすら避けてきたような印象があるんですよね。常に新しさを求める、なんて言ってしまうと聞こえはいいけど、それは逆にリスナーの求める「Mr.Children」像との対峙から目をそらしてきたということでもある。前作『It's a wonderful world』でも、ポスト・ロック的な音使いや、過度に露悪ぶった文体とか、何だかセルフパロディを引き受けられないがゆえの悪あがきに感じられてしまう。というか、このバンドにコンセプト・アルバムって合わないと思うんだよなー。最高傑作とされてる『深海』も、通して聴くことってめったにないし。
で、今回ミスチルが取ったやり方は、完全に開き直りというか、潔く新機軸を捨てて、「innocent world」や「CROSS ROAD」といった王道の珠玉ナンバーを、これでもかと焼き直してはぶっこんでいく構成。「掌」なんか、初聴きの段階ですでに「これどっかで聴いたことある」というマンネリ感びんびんだったが、それでも曲の素晴らしさで難なく相殺されているのが凄い。とはいえ全体の作風は、妻子ある大人としての確固たる視点に貫かれていて、その安定感がサウンドやリリックの優しさにぐっと説得力を与えていると思う。「タガタメ」から「HERO」に至る大団円も、世間が期待するミスチルのイメージに一分の隙もなく答えたからこその成功と言えるだろう。そう、人生の役割を演じられぬ奴はクズだ。
デビュー以来のシングル曲を発表順に収めたベスト盤。俺と宇多田ヒカルの距離というのは、たぶん一世代上の人がオザケンに抱くそれに近く、従ってこのアルバムも小沢健二の『刹那』を聴いた時と同じ点が印象に残った。それはつまり「リズムの強さ」である。いま「Automatic」を聞き返すと、耳に残るのは楽曲のメロディーよりもむしろ、うねるように重いビート感だ。現在の米ヒップホップと比べても遜色ない出来であり、これが90年代後半のチャートを席巻したというのは驚嘆に値する。
スノッブ混じりに音楽を聴く人の中には、大衆音楽を保守的で凡庸なものと決めつけている人もいるかもしれないが、それはまったくの誤解だ、人はより優れたリズムに惹きつけられる。「Automatic」が爆発的なヒットを飛ばしたのは、この曲が(当時においては)最も先進的なビートを備えていたからに他ならない。2ステップ〜ミニマル・テクノを経由した「traveling」なんか、トラックだけを聴くと相当アバンギャルドな音を出しているが、曲の総体としては見事なポップ・ソングとして結実している。ビョークやUAが前衛だと思っているような奴は、このベストを百万回耳に叩き込んでから出直してこい。
しかしこのアルバムにも絶望的な点は一つあって、それは「リズムには金が掛かる」というのを如実に思い知らされることだ(もちろん宇多田自身に責は全くないのだが)。米ヒップホップなんかを聴くとよくわかるが、あれは注がれた予算の多寡が、楽曲のクオリティに直結している(だからラッパーは露悪的なほど「金」のことを叫ぶのだと思う)。逆に言うと、金がなければなかなか優れたリズムは生み出せない。
本来、リズムは持たざる者の武器であった。現代音楽とは、旋律を重んじる旧来の音楽へ、次々と新しいリズムをぶつけることで発展を遂げてきたジャンルと言っていい。ジャズでもレゲエでもヒップホップでも何でもそうだ。しかし今(に限ったことではないけど)、ポップに尖った音を出そうとすれば、必ず金が必要なことになっている。アイデア一発で斬新なリズムを編みだそうとする、ヒップホップが勃興した時のような突破口が閉ざされかけているようで、個人的には考えこんでしまったりもする。
まぁ単なるいちリスナー如きにそんなウダウダは無用なわけで、素直に楽しめない所が俺のダメロックリスナーたる所以なのだが、これだけは言っとくと、わざわざ「COLORS」で水増しするんなら、新曲「誰かの願いが叶うころ」入れてくださいよー。俺、むりやり曲間削って勝手にコンプリート・ベスト作りましたよ。まんまと販売戦略に乗せられてる。
シングル「隣の部屋」をジャケ買いして以来、日がな神棚に祭っては萌えに萌えたおしてきた柴田淳の3rdアルバム。「萌えたおしてきた」って、すごく病んだフレーズで嫌だなぁ。マイルドに死にたくなるよ。お母さん、僕は何処で道を踏み誤ったんでせうか・・・しかしそんな病弊デイズともいい加減おさらばだ!おさらばだ!何故なら俺の萌えターゲット照準は既にaikoに移っている!(今さら?!)
まぁそんなこんなで、最近はわりと普通に柴田淳を聞き返したりしてるわけです。そりゃそうだ。だって神棚に祭ってちゃ聴けないし。「あなたへの日々」の通常盤は未だに封開けてなかったり(DVDが観れるようになったので)。で、この新作では特にそう思うんですけど、彼女の曲ってやたら暗くないですか。往年の中島みゆきを思わせる歌(「未成年」)があったりするし、収録曲のほとんどが「わかれうた」というのも異様といえば異様。で、その暗さっていうのも、何というか、「ちゃんといい恋してる?」と心配になってくる暗さというか・・・もちろん恋愛フィールドワークは秋元康ばりに完ペキな俺が言います、けども。俺いま図書館でバイトしてるんですが、秋元康のフザケたタイトルの恋愛論とか、もう目に入るだけで殺意がみなぎってくるよね。みんな死んじまえ!
別れを歌うこと自体は歌謡曲のセオリーなので何ら問題はないんですが、柴田淳の場合は、相手への憧憬をただ理想像として綴るだけだったり、あるいは逆に別れた怨みを延々ぶつけるような詞ばっかりで、言わば情念の一方通行なんですよね。恋に恋するよりタチが悪い、恋に破れた自分に酔ってるタイプ、みたいな。たまにいますけどそういう人。まぁ美人だからそれもサマになるのかもしれませんが、聴いてると「神田川」に出てくる同棲カップルの女のほうが修羅場の末にカミソリ持って立ってるような、マイナスな昭和情緒あふれる絵が浮かんできて怖いです(もちろんイメージは柴田淳)。事務所もたぶんルックス狙いだから、楽曲の方向に関してはわりとノーマークなんだろうなぁ・・・多分そこがブレイクできない最大の原因だと思うんですけど。
aikoの「アンドロメダ」も典型的な別れの歌だけど、あれは別れた相手との思い出と、遠く離れてしまった現在の喪失感にきちんと距離が取れていて、「あぁ、悲しいながらも気持ちは前を向いてんだな」って伝わるじゃん。そういう、恋愛を通して育っていく感情の機微みたいなものが、あまり柴田淳の歌からは感じ取れないんですよね。
前作『Highly Evolved』で、一躍ロックンロール・リヴァイヴァルの顔となったヴァインズの2ndアルバム。先行曲「Ride」の試聴では、期待に違わぬ爆裂ロケンローぶりを見せており、大いにワクワクしていたのだが、いざフタを開けると、「2枚目のジンクス」に足を取られた、典型的な煮詰まり作でありました。無念。
1stと同じく、丁寧な作りのミドル・ナンバーが本編の半分を占めてるんですが、まずこれが良くない。つうか、誰もヴァインズにおとなしい曲を求めてないと思うんですよ。ポップ・パンクも真っ青な爽快メロディーが、フーファイ「All My Life」を凌ぐ起爆量で炸裂する「Ride」のスリルこそが、バンドの持ち味だろ?確かに『Highly Evolved』での硬軟取り混ぜた曲順は妙案だったと思うんですが、あれはデビュー作ならではのケガの功名と考えないと。優しいバラードの「Autumn Shade」からトップギアで「Outtathaway」へ突っ込む意外性が、図らずしてガレージ・アルバムに新味をもたらしていたワケで、その手法を2ndに持ち越されても、聴き手にとっては完全に賞味期限切れですわ。ミドル・ナンバーで聴かせるバンドなんて、それこそいくらでもいる。アルバムの構成に目を取られて、オノレの長所をつかみ損ねたことが、何よりヴァインズの敗因。
それでも何とか聴き通せるアルバムになってるのは、ドラムの良さに負うところが大きいですね。ドガドガ打ち鳴らされる「Ride」のキメもそうだし、バラードがそこそこ単調に流れていないのも、ドラムの優れた空間把握力あってこそ。まぁ“今作はもっと音楽的な深みを追求したんだ”と言わんばかりにびよんびよんした間延びサイケでお茶を濁す手合いよりゃ、二番煎じをきちっと作ってくるほうが百倍マシですから、期待値を大幅に下回るという程ではないです。ただ次作もこの路線だったら、俺の興味からは完全にフェードアウトですなー。
『99ep』以降のシングルやc/w曲を選り集めた編集盤。俺はシングルなんかだと大抵レンタルで済ませちゃうものぐさリスナーなので、こういう「B面集」的な企画は正直ありがたいです。しかしアレだな、「夢追い虫」が『プラトニック・セックス』の主題歌に決まったときもかなり歯の根がガリッ!ガリッ!となったけども、「スターゲイザー」が『あいのり』と来た日にゃ堪忍袋の緒がバーストですよ。お前ら絶対マーケティング間違えてるだろ。性欲バスで走り出しちゃうような奴らがスピッツの歌を必要としてる訳がねえだろう。どうせあいつらケミストリーとか聴きながらその場のノリで「ひと夏の思い出」と称して野外プレイに励んでるに決まってんですよ!(偏見。しかも中学生ぐらいの)違うだろう、スピッツってのは、真夏でも連日予備校に通わなきゃならんくて、クーラー効きっパな教室から抜けるような青空を眺めつつ、脳内だけで練り上げた清廉ロマンスに酔いしれちゃってるような夢見るオクテボーイズのために歌われるべきだろう。いや俺も言ってることよくわからんが。
まぁ俺にとってのスピッツは、未だ俺の恥ずかしい思春期を人質に取り続けてるバンドで、最新曲「スターゲイザー」に至ってすらその脅威は健在なわけで、「青春生き残りゲーム」のイントロですでにセンチなため息をついちゃってる23歳には、到底冷静な評など下せるはずもなく、ただただこのアルバムの前にひれ伏すのみ。文系少年の臆病な恋心とねじれたリビドーを全肯定するエヴァーグリーンな旋律、そしてそれを完璧にフォローしていく洒脱なギターロックの文体、どこを切っても和流ポップの妙が映える心憎さです。その素晴らしさは、たとえ寄せ集めのコンピレーションと言えども微塵も変わりはないのです。というわけでお前ら聴け。

[] 独善音楽評
[引用サイト]  http://www5b.biglobe.ne.jp/~garcia/DISCREVIEW.html
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 Last Updated 2007/ 03/ 05/ 14時07分30秒

新刊、既刊にかかわらず、数多ある本を自分なりに論評する。「本」といえばあまりに対象が広くなる。そこで、当面は経済関連書に的を絞る。
1983年、分譲マンションのありかたを規定する区分所有法の改正が行われた。改正の最大のポイントは「五分の四以上の賛成があれば立て替えを決議できる」としたことだ。従来はマンション建て替えには区分所有者全員の賛成が必要だった。同法の国会審議では「残り二〇%」の権利をどう守るのかという点に質問が集まった。「老人世帯の人とか、経済的な余裕のない人を無視していいのか」「憲法で規定されている財産権とも関係する。数字だけで決めることができるのか」。議員の疑問は正鵠を射ている。 これに対して、政府は一貫して「心配」ないと答えた。心配がない理由の一つは「老朽、損傷、一部の滅失その他の事由」によって「建物の価額その他の事情に照らし、建物がその効用を維持し、または回復するのに過分の費用を要するにいたったときに」に限られる。「非常に厳格な実体的要件のもとに、しかも五分の四という非常に厳格な手続き的要件のもとに」建て替えへの道を開いたのだから、大丈夫なのだと。想像力の欠如は否めない。ひどいのが次の答え。「時価で売り渡すことになっても損はしない」。法務大臣・秦野章氏の見解だ。血の巡りが悪いらしい。根拠薄弱、意味不明の回答と断じざるを得ない。国会審議を振り返る限りは、国会議員の良識が浮き彫りにされる。 想像力の欠如がその後露呈する。1998年1月の阪神・淡路大震災により被災したマンションでは「五分の四」を巡って住民の対立を招く。多数決の横暴が牙をむいた。著者の島村慈子(注1)は愚直にマンションの被災者を取材する。立て替えと補修で紛糾する例が少なくなかったようだ。区分所有法では、大規模補修には四分の三、立て替えには五分の四の賛成が必要と定めている。逆の見方をするならば、どちらの要件も満たせなければ、マンションは損傷したままの姿でいつまでも放置されることを意味する。 しかし、放置されるのが好ましくないのは言うまでもなかろう。例えば、立て替え賛成が五分の四にわずかに満たなければ、住民の間に軋轢が生じる。建て替えに賛成しない住民が異端・白眼視されかねない。ただ、建て替えるにしても問題が残る。マンションのローンが残っている住民は、さらに立て替えに伴う費用のローンを組まなければならない。「Wローン」だ。 一方、『あなたのマンションが廃墟になる日』山岡淳一郎著、(草思社)では、30年という短い期間で壊され、新築されるマンション(集合住宅)を問題視。マンションの「立て替え」を推進するため、大手不動産や建設会社の強い圧力を受けた国が成立させた「マンション立て替え法案」が2002年12月に施行された。著者は壊して建て替えるか? 再生して長く住むか? と問題提起している。 これではマンションは資産と呼べない。超長期の耐久消費財だ。建設業界や族議員など”抵抗勢力”(注2)の反発必至だが、国は建て替え偏重から、維持・再生を踏まえた政策に舵を切るべだ。中古マンション再生(リノベーション)産業は成長しており、インテリックスなど株式上場企業も誕生している。建て替えのたびに大量の産業廃棄物を排出するような住宅政策を考えると、「持続可能な社会」との掛け声がむなしく響く。(注1)=島本慈子は、住宅や雇用など身近で重要な問題を得意とするノンフィクション作家。多作ではないが、堅実な仕事が光る。(注2)=「穴掘って埋めるのも有効需要」なんて開き直ったりして・・・
日本証券新聞社編集局記者。書評担当。1959年千葉県木更津市生まれ。趣味は読書、音楽鑑賞、将棋、ソフトボール。好きな書評家は池内紀、鹿島茂、坪内祐三、斎藤美奈子。パット・メセニー、ビートルズのファン。老後は株式投資、犬の散歩と晴耕雨読の日々を夢みる。

[] 活字マニア豚児の「独善書評」 - 投資関連おすすめ本 - 兜町ネット
[引用サイト]  http://www.kabutocho.net/book_dokuzen/index.html
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 Last Updated 2007/ 03/ 05/ 14時07分30秒

4月8日投開票の東京都知事選に事実上の出馬表明をした浅野史郎は、様々なマスコミに石原慎太郎知事について「社会的な弱者に対する差別的な発言に多くの人は怒っている。」と批判、対決姿勢を打ち出している。最大の違いが障害者福祉に対する姿勢であるかのようにも発言している。 浅野氏は、宮城県知事として有名だが、その以前は、厚生労働省の官僚であった。それも障害者福祉を担当し、障害者いじめの「障害者自立支援法」(応益負担、日割単価)の先鞭をつけた人物である。 確かに、石原知事は、障害者等に対する差別的発言が多いことで有名だが、浅野氏は、それを批判できる人物ではない。政策の内容的には、浅野氏自身も「差別的政策」を推進してきた。 自らがとってきた行動を隠して、「福祉を推進」して来たかのように述べ、争点にするのは、都民に嘘をつくことにならないだろうか?
2月は、全体に不自然な気候が続いたが、さすがに、春らしくなってきた。 久しぶりに自宅周辺を散歩してみると、以前から見かけていたイヌフグリや踊子草が本来の勢いを益して、生き生きとしている感じがした。群生の場所もイヌフグリを中心に圧倒的に増えている。 動物もスズメ等が 元気になり、自宅庭に来る数も増え、顔も精悍さを取り戻している。
自宅庭の梅の花が一つ咲きました。全体的には、まだ蕾ですが、今にも咲きそうな勢いです。 異常気象ではあるのだろうけれども、植物の世界には、春が確実に訪れています。
2月22日に紹介した蕗のとうが更に成長し、開花直前のようだ。でも、もう既に日当たりの良い場所の蕗は、完全に開花している。やはり、異常気象の影響か? 蕗には雄株と雌株あるとの事で、黄色の花のこれは雄株のようだ。その直ぐ近くに、もう一つフキノトウが芽出しているこちらは食べれそうな感じだ。
市民意見広告運動事務局 乾喜美子さんという方から下記の文章の掲載の依頼を受けました。私自身も昨年の5月3日の意見広告運動に参加し、名前を掲載させてもらいました。今年も、参加する予定です。以下依頼文書です。−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 反戦市民グループ「市民意見広告運動」は、この国を〈戦争をする国〉〈戦争ができる国〉にする自民党の「新憲法草案」に反対します。 9条改憲を許さないだけではなく、日本政府に非武装・不戦を実行させる九条実現を基本的なスタンスとします。それを実行することが平和をもたらす道であることを改めて強く世論に訴えることにしました。
2007年の5月3日の憲法記念日に、最低、全国紙一紙とできるだけ多くの地方紙に「非武装・不戦の憲法を変えることに反対」「九条実現」「イラク・インド洋からの自衛隊の撤退要求」する意見広告を掲載する運動を進めています。 日本を戦争国家にさせないため、この運動にみなさまのご参加を心からお願いします。ご連絡をいただければ、すぐ、詳しい資料などをお送りいたします。
あまりの暖かさに、もしかしたらと思い、庭を観察してみると「蕗のとう」を発見。いつもの発見であれば、大いに喜び、大切に摘み、蕗味噌か、天ぷらにし、春の香りをたのしむところだが、今年は、そんな気持ちになれない。実際の蕗のとうといつもと違う。生命の息吹や柔らかさが感じられない。 いつもの年は、喜びの蕗のとうなのに、今年は、何か寂しい喜べない発見だ。
何か観たこと無いような風景が続く 。 秋のような夕焼け、春のような清々しい風景。綺麗さに喜んだり、不思議な風景に悩んだり、怖さを感じたり等々。 何か、地球全体が変化しているような感じが、身近にも起きているような気がする。
浜名湖駅伝見学の主要な目的は、親類の子ども(高校生一年生)がアンカーで走ると云うことでの応援と撮影です。 チームとしては、上位ではありませんでしたが、アンカーの子どもは、タスキを渡されてから二人を抜き去り、チームに大いに貢献しました。
必死の力走をしっかり撮影しましたが、顔があまりはっきり写るのは嫌がりそうなので、少し遠目の写真を掲載します。
ちょっと報告が遅れましたが、日曜日、浜名湖駅伝の応援に行ってきました。天気も良く応援には適当な気温でしたが、選手には少し厳しかったのかも知れません。
仕事との関係で家裁や調停で裁判所にたまに出かけることがある。 しかし、今回は、初めての裁判傍聴、当然仕事だからメモを取るので大忙し、疲れた。 兎に角、法律用語が飛び交い、更に、細かい犯罪の事実、動機、犯罪者集団の人間関係、主犯の特定等々、理解するだけで大変。 確実に解ったのは、求刑と次回の判決日。最低限の役割は、果たしたかな??
◆(1) 岐阜県庁の裏金事件。過去20年分の80億円の裏金と知事ら退職金の返還請求の住民訴訟データ (てらまち・ねっと)
◆岐阜県のプール金。裏金。警察は以前から捜査。職員組合口座。住民訴訟対策に使用か (てらまち・ねっと)

[] ふるの独善的、趣味的ブログ
[引用サイト]  http://furutaki.cocolog-nifty.com/blog/
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