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こんにちわとは?

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「『こんにちわ』撲滅委員会」とは「こんにちわ」表記撲滅のために戦い「こんにちは」表記を広く普及させようという趣旨のもとに設立された団体である。【2002年8月13日開設】
当サイトへのリンクはアダルトだろうと、アングラだろうとご自由に。バナーは以下のもの以外にも、いろいろあるのでお好きなものをどうぞ。
そもそもリンクは無断でしても全く問題のないのに、「リンクの場合は管理人に連絡を」と書かれたサイトが多いため、わざわざこんなことを書かなくてはならないから面倒だ。すでにサイトをインターネット上に公開した時点で、誰が閲覧しようとリンクしようとかまわないという意思表示をしているというのに(詳しくはこちらを参照のこと)。リンクの許可云々を述べてあるサイトは日本のサイトぐらいで、英語圏のものにはほとんどない。リンクフリー(Link Free)は和製英語である上に、習慣的にもおかしいのである。
……と書いたら、何でLink Freeが英語的に間違いなのかというメールが来た。よく日本人が間違える例を挙げよう。「Smoke Free」と書いてあるところで、「お、『タバコご自由に』という意味だな」と思ってタバコを吸い始めたらやっかいなトラブルに巻き込まれる恐れがある。「Smoke Free」とは「煙がない(Free)状態」ということで、「喫煙禁止」という意味だからだ。そう考えると「Link Free」のおかしさを分かって頂けるだろう。
それからなぜだかThis site is Japanese only, Sorry! などと謝っているものもあるが、なぜこんなことでわざわざ謝罪するのか全く理解に苦しむ。「謝罪」は英語圏では日本人が考える以上に重い意味を持つからだ。英語ができなくても、あなたが日本人で、美しい日本語が話せるなら何の問題もない。
ついでに著作権(c)についても書く。著作権表示には、著作者の氏名、最初の発行の年と(c)の3つが必要と言われる。世界には、著作権について方式や手続きを必要としない国(無方式主義)と、表示を必要とする国(方式主義)があり、日本は無方式主義である。つまり著作権は作った時点で発生する。日本が無法式主義のベルヌ条約に加盟していることと、方式主義の国が少ないことから、日本人を対象にした当サイトにおいては、(c)は必要ないと思われる。
しかし「このサイトはそういうことを一応気にしているサイトですよ」という公言のためだけに書いている。当然読者の方は分かっていらっしゃると思うが、法律で認められている「引用」は全く問題ないが、当サイトに掲載されているあらゆる内容の無許可転載・転用を禁止する。
あたりまえだが、趣旨は真面目であるものの、委員会はシャレでバーチャルなものである。頼むから「この団体は公的な団体ですか? 日本語審議委員会と関係ありますか?」という真面目なメールを送らないでいただきたい。

[] 『こんにちわ』撲滅委員会
[引用サイト]  http://park15.wakwak.com/~o0o0o0o0/bokumetsu/
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 Last Updated 2007/ 02/ 25/ 22時12分38秒

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言葉は変わる。いずれ「こんにちわ」が「こんにちは」よりも優勢になり、常識になる時代も来るかもしれない。しかしそんな中、あえて「こんにちは」を死守したいと考える団体が、今あってもいいのではないか。
「正しい日本語」とまで話を広げるつもりはない。当団体は「『こんにちわ』撲滅委員会」で「正しい日本語推奨委員会」ではないからだ。このサイトは「2000年代初頭」の「日本語の挨拶『こんにちは』」にこだわるという趣旨のサイトだということをまず言っておきたい。
例えば英語では Hello 、スペイン語では Holaと書く。もし日本人が、「『ハロー』と発音するから Hallo でいいじゃない」、「『オラ』だからそのまま Ola と書いても間違いじゃない」「そんなのどうだっていい」「言葉は変わるんだから」……などと言ったら、その言語を母語とする外国人は「でもそれは間違っている」と返す人が大半だろう。
母語なのに Hallo、 Ola と書いている英語圏人、スペイン語圏人をあなたはどう思うのか? 日本人なのに挨拶の言葉一つまともに書けない人をどう思うのか? また外国人に指摘されたときにどう弁明するのか?
子供に国際化だ、英語教育だという前に、まずは自分の国の言葉で挨拶ができる人間を育てるべきなのではないだろうか。
「こんにちは」は「今日は、よいお天気ですね」の後半部が省略された形だとされ、「今日は」は「今日(名詞)」+「は(助詞)」であるため「は」表記が正しいと言える。そもそも助詞には「わ」はないからである。「今日はどちらへ?」という挨拶も元々は疑問文であるが、相手の答えを要求しない挨拶文である。「へ」を「え」と発音するからといって「今日はどちらえ?」にはかなりの違和感を覚える。
これには反論もあろう。挨拶語は感動詞とも考えられるからだ。例えば「はじめまして」は感動詞である。これを応用すると、「こんにちわ」も感動詞であり、一語だと考えて「こんにちわ」表記が正しいとする説もある。しかし仮に感動詞だとしても、「今日は(以下略)」という成り立ちを尊重するならば、「こんにちは」(感動詞)とするべきである。以上の基礎国語文法は、小学校段階の国語で習っているはずである。
皆さんの中には幼い頃、「こんにちわ」と書いて小学校の作文の時間で直された経験がある方もいらっしゃるだろう。上で述べたように「こんにちわ」と書くのは小学生レベルの勉強もろくにしなかったことを相手に伝えてしまうかもしれない。相手も「こんにちわ」派の人である場合はいいが、相手によっては「大の大人が『こんにちわ』などと書いて恥ずかしくはないのだろうか?」と思う可能性があるのである。
昔読んだ藤子不二雄の「ドラえもん」にはのび太少年が「今日わ」と挨拶して、先生に「今日は」と訂正されるシーンがあった。「こんにちわ」などと書いていると、のび太少年と同じ恥をかいてしまうかもしれない。
こんにちわ」と書く人は、たまたまキーボードを打ち間違えただけなのだろうか? この答えはノーである。
キーボードで「わ」とローマ字で打つ場合は「w+a」と打ち、「は」と打つ場合は「h+a」と打つ。wとhは位置が離れている上に、正しいタッチタイピングで打つ場合は「h」は右手で「w」は左手で打つためたまたま間違えたということは起こり得ない。私もよく「以外に(「意外に」の間違い)この本は面白かった」などとやってしまうことがあるが、この手の誤字とは根本的に違うのである。
ちなみに私の使っているATOKの辞書では「こんにちわ」と打って変換すると「紺に痴話」と出てくる。ATOKで基本の挨拶が間違って変換されるなど考えられないため、このことからも「こんにちは」が正しいと言える。
【注】読者のAlumiさんから教えて頂いたのだが、「点字」の表記では、「て に を は」の「は」は、「わ」と表記するのだそうだ。つまり点字では、「私は」は「わたしわ」となるため、「こんにちは」は「こんにちわ」となるのだとか。当サイトでは、点字の表記を間違っているとするものではなく、別の表記の仕方だと考えてる。ちなみにAlumiさんは、メールやネット上の表記では「こんにちは」を使っていらっしゃるそうだ。勉強になる。(『こんにちわ』撲滅委員会会長)
ではわざと書いているのか? 私自身、文を書くときにわざわざ表記を変えて書くことはある。例えば「ハズカシー(恥ずかしい)」「ヲタク(おたく)」「をいをい、そうぢゃないよ(おいおい、そうじゃないよ)」など。
正式な文章で書くことはないが、軽いコラムや友人に向けて書くことはある。これは正しく書いたときと比べて、ある種の意味や雰囲気を強調できるからである。「ハズカシー」と「恥ずかしい」では文から受ける印象がかなり違うのでそれをわざとねらっているのである。
このようにわざわざ正しくない表記をする作家もいる。一時期の椎名誠氏、嵐山光三郎氏、南伸坊氏らが使っていた形式で「昭和軽薄体」と呼ばれた文体である。わざわざ「そうなのでR」(=そうなのである)「そーゆーふーに」(=そういうふうに)などと書いていたのだ。これは軽さや照れ、面白さなどを表現するために使われた文体であるが、「こんにちわ」はこのようにわざと書いた表現方法なのであろうか?
しかしこのような文体とは「こんにちわ」を分けて考えねばなるまい。なぜなら「こんにちわ」は、その後ろに隠れた、どうしても表現したい「何か」が薄いからである。せいぜいが「『こんにちわ』と書く方がイマドキでカワイイ」ぐらいであろうか。全体的に、「こんにちわ」と書く人には若い人が多いという。そのため「若さ」を表現しているとも言える。
こんにちわ」派の人は初対面の人に宛てたメールやや正式な文章で「こんにちわ」と書くことは少ないと言う。もしはっきりとした主張があるならば、堂々と正式文書にも「こんにちわ」と書いてもいいはずだ。しかしほとんどの人は使い分けている。「言葉は変わる」と言っても、まだ「こんにちわ」はスタンダードではないのだ。
私事になるが、私は以前趣味の読書(ミステリ)に関するメールフレンドの募集をしたことがある。女性は誰でもそうだと思うが、3日ほどで200通を超えるお返事をいただいた。もちろん全員とメール交換することはできないのでお返事をする方と、お返事できない方と分けなければならない。私が最終段階で絞る判断材料にしたのは「こんにちは」と「こんにちわ」表記であった。
毎回毎回送られてくるメールが「こんにちわ」だった場合、こちらから指摘するのも角が立つし、気になってしまって返事を出すのを躊躇してしまうのだ。私の女性の友人に聞いてみたところ、「こんにちわ」と書いてくる男性には返事を書かないという人が8人中5人いた。男性も女性からの「こんにちわ」表記のメールは首をかしげてしまうという方もきっといることだろう。
こんにちわ」派の人は相手が「こんにちは」と書いてもあまり気にしない人が多いのかもしれないが「こんにちは」派の人間からすると「こんにちわ」はとても違和感があるのだ。
どんなに素敵な人だろうと、違和感を抱きながらメール交換をするぐらいなら、「こんにちは」派の人と心おきなくメール交換を楽しむ方がいいのである。これはまあ、たくさんメールが来る側にいるからかもしれないが(男性は返事そのものがほとんど来ないのでそんなことに構っていられないだろう)。
subject:こんにちわ! 本文:はじめまして。こんにちわ。ボクはK談社に勤めている編集者です。(以下略)
ウソである。この不況時代に「こんにちわ」などと書く者を、言葉のプロである編集者として雇っておくような出版社などあるはずがない。もし本当なら私は今後K談社の本を手に取ることを躊躇するだろう。
たかが挨拶といえども、「こんにちわ」で判断されてしまうのは非常に損だと言える。どうしても「こんにちわ」と書きたければ、うち解けて親しくなってから「こんにちわ」と書けば良い。せめて初めてのメールぐらい「こんにちは」と書いてみてもいいのではないだろうか。
当委員会会員の中でも特に論議を呼んでいるのが「掲示板における挨拶」問題である。不特定多数が閲覧するサイトの掲示板では「こんにちは」と「こんにちわ」どちらを使う方がいいのだろうか?
よくあるのは掲示板で「こんにちわ」を使った書き込みに対して、誰かが当委員会のサイトアドレスを貼り付けて論争になってしまうことだ。そのこともあって当サイトはあちこちにリンクを張られ、400人以上もの会員様にご意見をいただけたのだが、他のサイトで「こんにち○問題」に関する対立が起こり、掲示板の雰囲気が荒れてしまうのは、当委員会にとって非常に不本意である。
そこで、なぜ掲示板で「こんにち○問題」がこのような論争を引き起こしやすいのか検証してみることにする。
よく「こんにちわ」派の人が持ち出す反論に「『こんにちわ』は親しみを込めて使っている。仲間内だけで盛り上がる掲示板ならいいではないか」というものがある。しかしそれに対して「こんにちは」派がある種のいらだち、不安感、違和感を覚えるのはなぜだろうか?
それはおそらく「こんにちわ」派が持つ対人関係の距離感が、「こんにちは」派の距離感と異なるからではと考える。メールの場合はまだいい。送信者は受信者が何者か分かっているので受信者との関係を考えて「こんにちは」、「こんにちわ」を選べるからだ。初めてメールを出す相手や仕事関係などでは「こんにちは」を使うだろうし、気心が知れた友人の場合などは、「こんにちわ」でも、相手も指摘しやすい。しかし不特定多数が見る掲示板では、それぞれが持つ距離感をあらかじめ想定することは難しい。
こんにちわ」派の人は、掲示板は同じ趣味を持つ仲間として親しみを込めて「こんにちわ」と書き込むのかもしれない。しかし、掲示板には様々な人が集まる。掲示板の常連さんも、その場に初めて来た人も、馴れ馴れしく語りかけられるのを嫌う人も、誰でも気心の知れた友達のように話したい人も、いろんな人がいる。
「こんにちは」派の人は、「こんにちは」が正しいと思っていても言えない。「どうしてこの人は『こんにちわ』なんて書くんだろう」と思っても、相手の距離感がつかめないため指摘することは難しいからだ。たいした問題ではないと思いつつも、心に違和感がつもっていくため、掲示板を見るたびに気になってしまう。違和感がつのるとやがてストレスへと変わり「『こんにちわ』派は無神経にこちらの領域に踏み込んでくる」とイライラを爆発させてしまう。そしてそれを代弁している当委員会のアドレスを貼り付けて、「これが言いたかったんだ!」と怒りをぶつけてしまう……。
繰り返しになるが、当委員会は「こんにち○問題」について有意義な話し合いとなることは嬉しく思うが、他のサイトの掲示板をひっかきまわし、雰囲気を悪化させることは全く意図していない。当委員会の会員が心ない書き込みをすることは非常に残念だ。「こんにちは」は挨拶の言葉だ。「私は敵ではありませんよ」とコミュニケーションを取る意志があることを伝える美しい言葉だ。それなのにそれが争いの火だねとなってしまうのが悲しい。
これは私の個人的な意見であるが、掲示板の書き込みの挨拶について、当委員会が「こんにちわ」と書くことを阻むことは不可能であると思っている。しかし「こんにちわ」派の人々には、不特定多数の人間が見る掲示板では「こんにち○問題」に神経質になっていたり(口に出さないまでも)ある種の感情を持つ人々がいるかもしれないということを知っておいて欲しいと願っている。世の中には様々な人がいると知っているだけでも、コミュニケーションは上手くいくはずだ。
賢明なる読者の方はお気づきだろうが、この会の会員は、「『こんにちわ』は間違いではないか」と言いたいのだが相手に正面切って問うことができない、言いかえれば非常に繊細で小心、心配性な人々である。
ほとんどの会員は「こんにちわ」派の人々を吊しあげ、魔女狩りのように火あぶりにしたいとは考えていない。遠回しに上手く言う方法はないだろうかと日々悶々と悩み続けているだけなのだ。当委員会はそんな人々の心の支えになってほしいと思っている。「『こんにちわ』撲滅委員会」は武闘派の集団ではないのでそこのところをよろしく願いたい。
現在「『こんにちわ』撲滅委員会」では会員募集中である。ご賛同いただけた同志の方はぜひ入会されたし!

[] 「『こんにちわ』撲滅委員会」 こんにち○を検証する
[引用サイト]  http://park15.wakwak.com/~o0o0o0o0/bokumetsu/why.html
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 Last Updated 2007/ 02/ 25/ 22時12分38秒

身体は自然科学の対象であり、自転車は工学の対象である。これについて異議を唱える人はいないだろう。しかし、「言語は自然科学の対象であり、読み書きは工学の対象だ」という事実にはついては、まだまだ理解されていない。言葉に関する多くの議論が、この事実を認識していないことにより混乱が生じている。
自転車に乗るには練習が必要であるし、読み書きを取得するには、子供のころから長い時間の学習が必要となる。このコストの問題は当たり前のことだと思われているので、コストであるという意識が薄れているが、なければないで越したことがない種類のものだ。
両者とも、先天的な能力(歩行能力と言語能力)を拡張するものであり、それらと密接に結合しているということ
言語と読み書きは、その起源に限っていうと別物であり素性が違うものだ。しかしながら読み書き能力の取得が、本来持っている言語能力になんらかの影響を与える可能性は十分にありうるし、かなり濃密に相互作用を与えあっていることは疑いがない。同じことは自転車にもいえる。自転車はかなり微妙に身体の反応を受け取る道具だ。さらに、自転車に乗ることによって、足の筋肉の発達に影響が発生することもあるだろう。この点でいうと、自動車や電車は身体の拡張とはいえない。
以上を踏まえて、私が「鉄下駄理論」と呼んでいる議論について考えてみよう。鉄下駄理論とは簡単に言うと「読み書き方法の難易度を上げれば、読み書きの取得と使用の過程で脳が鍛えられていい」という考えである。よく見かける議論であるが、自転車の類比を使って見てみると「自転車は乗りにくくてペダルが重いほうが足が鍛えられていい」といってるのと同じだということがわかる。
ちなみに、コンピュータと自転車について、今から20年以上前に、同じような類比を行っていた人がいた。米国のアップル社のスティーブ・ジョブス氏である。彼は直感的にアップル社のコンピュータを知的自転車と呼んでいた。当時のアップル社のコンピュータが自転車と呼べるほど身体を拡張する道具であったかどうかは疑問であり、むしろ電車に近い道具だたったのかもしれないが、のちにMacintoshによって、曲がりなりにも知的自転車と呼べるコンピュータが実現することになる。彼の直感は間違っていなかった。
私はコンピュータの出現によって、従来の読み書き方法が、歴史的なひとつの曲がり角を迎えているのではないかと考えている。コンピュータによって読み書きを取得するコストが大幅に抑えられ、さらに全ての人間が同じ読み書き方法を共有する必要がなくなる時代が来るのではないか、と考えている。
ずいぶんSF的な話に聞こえるかもしれないが、漢字変換ソフトを使って文字を入力している人は、すでにその世界に足を突っ込んでいる。Webページにふりがなを振って表示するソフトなんていうのも今の技術をもってすれば簡単にできてしまうだろう。
万人が同じ自転車を乗る必要はない。読み書き方法の共有を捨て去ることで、無駄なコストが削減され、読字障害に悩む多くの人が救われるのではないかと思っている。
『ヒューマンリーグ。馬鹿気た名前だ。なんだってこんな無意味な名前をつけるのだろう?昔の人間はバンドにもっとまともな節度のある名前をつけたものだ。インペリアルズ、シュプリームズ、フラミンゴズ、ファルコンズ、インプレッションズ、ドアーズ、フォア・シーズンズ、ビーチボーイズ。』
広島に根拠地を置くプロ野球チーム「広島カープ」は、発足当初は「広島カープス」といったそうだ。発足した直後に、広島大学の先生などが「英語のCarpは単数と複数が同形なので、カープスはおかしい。カープにすべきだ」と主張して、今の「広島カープ」という名前になったそうだ。その広島大学の先生たちは、いわば「広島カープス撲滅委員会」というわけだ。この話は随分古い話だし、公式ページにも載ってなかったので、詳細は異なるかもしれないが、大筋ではこのような話で間違いないだろう。「広島カープス撲滅委員会」の「間違った英語を広めると教育上よくない」とか「米国人にこんなチーム名が知られたらはずかちーですよー」とかいう声が聞こえてきそうだ。とにもかくにも、最終的には「広島カープス撲滅委員会」の運動のおかげで、広島のプロ野球のチーム名が、正しい名前「広島カープ」に修正されました。めでたし、めでたし。
というのも、チーム名は普通名詞とは違うから、普通名詞の規則をそのまま当てはめる必要はないという説もあるからだ。例として、カナダにはトロント・メイプルリーフス(Toronto Maple Leafs)という名前のホッケーチームがある。これ、普通名詞の複数形だとメイプルリーヴス(Maple Leaves)になるはずなんだけど、なぜかメイプルリーフスになっている。なぜかというと、このチーム名はメイプルリーフのマークの付いたユニフォームを着ていることにより、一人一人が「メイプルリーフ」とあだ名される男たちの集団という意味で命名されたのであり、ホッケーチームはトロントの公園にあるカエデの葉っぱとは違うので、「メイプルリーフ」スというチーム名にした、というわけである。
このように「何々とあだなされる人たちの集団」という形の命名規約を「古典的チーム命名ルール」と呼ぶことにする(註1)。
ところで、米国のバスケットボールのチームには、ミネソタ・ティンバーウルブズというチームがある。先ほどの説明だと、チーム名は狼を表す一般名詞ではないのだから、ティンバーウルフスでなければならないという話になる。しかし、実際にはティンバーウルヴズだ。なんでこの二つのチーム名で命名の規則が違うのかよくわからない。ただ、チームの構成員を葉っぱそのものに見立てるのは無理があるけど、狼に見立てるのはそれほど違和感はない、ということかもしれない。じゃあ、どのへんにその線引きをするのかというと、これはもう名づけた人の考え方一つとしかいいようがない。
ヒントになるのが米国のMLBの例で、フロリダにはマーリンズというチームがある。マーリンというのはカジキの一種で、カジキというのは言うまでもなく魚類の一種であるから、「広島カープス撲滅委員会」の言い分を当てはめると、フロリダ・マーリンズはフロリダ・マーリンでなければならない。これは、先ほどのチーム名と普通名詞を区別するという話に加えて、魚だからといって単純に単複数同形といっていいのかどうか、という話とからんでくる。
実際にcarpという単語をいくつかの辞書で引いてみると、複数形のところにcarpsもありえるということになっている。carpとcarpsをどのように使い分けているのかというのは辞書を引いただけではよくわからなかった。又聞きした話だと、観賞用のコイのように一匹一匹が個性があって区別できる場合はcarpsというのだそうだ。残念だけどこの説の裏付けはとれなかった。しかし、もしその説が正しいとすると、野球のチーム名としてはcarpsのほうが、その使われ方を考えれば適切に思われる。つまり、山本浩二と衣笠の区別ができないとか、正田と高橋慶彦の区別ができないとか、外木場と北別府の区別ができないというのでもないかぎり、「広島カープ」というチーム名にする必要はない。いくら個別の選手を鯉に見立てたとしても、選手を鯉と全く同一視するのは、やはり無理があるんじゃないだろうか(註2)。というわけで「広島カープス撲滅委員会」の主張と異なり、古典的な命名ルールに従えば「広島カープス」のほうがより適切なチーム名のように思われる。
これまでは、「古典的チーム命名ルール」に限定して話してきたが、それを逸脱する場合も今では多いからだ。
実際にNBAにはsが付かないチーム名が他にもたくさんある。たとえば、マイアミ・ヒートとか、オーランド・マジックとかだ。これらは、「古典的チーム命名ルール」を逸脱した「前衛的チーム名」といえるだろう。この場合、すでにチームの構成員をチーム名の単数形で呼ぶことは不可能になってくる。チーム全体が「ヒート」であり、チームが「マジック」を演出するという意味なのだろう(註3)。
そう考えると「広島カープ」というチーム名は、「古典的チーム名」としては、そのルールを逸脱している名前であるが、「前衛的チーム名」と考えると、チーム名がつけられた当時としては非常に画期的なチーム名であるといえる。チームそのものが歌川国芳の武者絵に出てくるような巨大な一匹の大きな鯉をあらわしていると言われれば、なるほどそうかもしれないと思えてくる。
というわけで、私は「広島カープ」という名前はそのまま変える必要はないと考えています。もう「広島カープ」で定着してますし、言葉は話し手の意図が重要で、規則はあとから来るものだと思ってますから。
註1 古典的チーム命名ルールでは、チームの構成員は、チーム名の単数形で呼ぶことが可能になる。たとえばタイガースの若手選手をyoung tigerと呼ぶことが可能になる。ここで疑問なのはボストン・レッドソックスの例だ。果たして、レッドソックス(ホワイトソックスも同じ)の個別の選手はどのように呼ばれるべきなのか。松坂大輔は redsox from Japan と呼ばれるべきなのか?それともredsock from Japanと呼ばれるべきなのか?
註2 どちらかというと、広島カープの選手は、猿やらくだなどの他の動物に見立てた方がいいという意見を言ったドラゴンズファンの友人がいたが、私はそうは思わない。
註3 リーグ別に調べたところ、MLBのような古いリーグでは、すべてが「古典的チーム命名ルール」に従っており、NFL、NBAの順番で、「前衛的チーム名」が増えてくる。これは、リーグ自体が保守的かリベラルかの指標を示しているようで面白い。
今更ながら、なんでこのブログを始めたかと言いますと、基本的には「『こんにちは』を『こんにちわ』と表記する考え方もあるんだよ」っていうことを伝えたかったからなんですね。同時に、こんにちわ撲滅委員会の会員さんたちの発言とか、管理人の無責任な態度に対する憤りもありましたけど、「語源絶対主義」のような誤った知識が蔓延してほしくなかった、というのが主な動機です。
たとえば、『こんにちは』と『こんにちわ』とどっちが正しいんだろうと思った人がいたとします。その人は、Webで検索するなどして、こんにちわ撲滅委員会を発見するでしょう。で、そこで一応納得するかもしれません。この段階で疑問をもたなかった人は、多分私が何を言ってもダメでしょう。それはこのブログを始めてからいろんな人を話してみた経験からそう思います。まあ、少しでも合理的な考えかたができる人なら「これ、ちょっとおかしいんじゃないの?」と疑問を持つわけです。そう思った人に読んで欲しいと思って、できるだけ検索されやすいように、ブログのタイトルをこんなカッコ悪いものにしたわけです。
このブログを始めてから、いろんな本を読んで勉強しました。「問題な日本語」っていう本もそのひとつで、その本にも「こんにちわ問題」について書かれてまして、そこに書かれている説明が、おそらくは「『こんにちは』と『こんにちわ』とどっちが正しいの?」という質問に対する、日本で義務教育を終えた人への答えとしては、最も公平でまとまったものだと思います。この本のおかげで私はヘタな説明を繰り返す必要がなくなり、随分助かりました。
また、いろいろ勉強したおかげで、最近では言語の起源とか音楽との関係とか、「どのようにして人間は言語を習得をするのか」とか、そんなところまで興味が広がってきております。これって全然関係のない次元の違う話じゃなくて、こんにちわ撲滅委員会のような言葉の指南役を自称する人たちがなぜ発生するのか、みたいな日常の話とリンクしてるんですよね。ある意味で、言葉の指南役とは対局の位置にいる言語学者たちは、そういう日常の問題には敢えて答えを出さないようにしています。それはそれで学者としては正しい態度でしょう。しかし、全く関係のない話じゃないんですね。それどころか、言葉の指南役の精神状態を分析したりすることが、言語学的に非常に興味深い問題の答えに対するヒントを与えてくれるんじゃないかと思います。そういうことがだんだん分かってきました。これからは、そんな記事を書いていきたいと思います。
前回は、疑似科学がどうとかいう以前に、世界観が薄っぺらなお話の例を取り上げた。今回は、じゃあ政策的にも倫理的にも正しい話に疑似科学が利用されたとしたら、それはどう考えるべきなのか、という問題について考察してみたい。
そこで思い出したのが、ちょっと前に読んだ、ある禁煙教育の記事なんだけれども、どうにも元記事がどこにも見つからないので、細かいところは記憶が間違っているかもしれませんが、まあ、ひとつの例としてあげるだけのでご了承ください。
で、その禁煙教育の内容というのはどういうものかというと、子供たちの前でダンゴムシにタバコの吸殻を食わせるという実験をしてみせるもので、タバコの吸殻を食べたダンゴムシはコロッといっちまう。それを見せた上で子供たちに「やっぱりタバコは体に悪いんですね」という風に教えるというものだ。
ところが、ここにはごまかしがある。ダンゴムシがタバコの吸殻を食べて死ぬというのは事実だが、「ダンゴムシにとってタバコの吸殻が毒だから人間にとってタバコを吸うことが体に悪い」というのは、合理的な推論とはいえない。人間はダンゴムシではないし、喫煙者はタバコの吸殻を食べない。
そもそも嫌煙権運動についてはいろいろ言いたいことがある。嫌煙権運動家の多くは、その言動を見ていると、他人の趣味を貶めることによって優越感を得たいというさもしい根性が動機となって、その運動を行っているように見える。このあたりの動機は「こんにちわ撲滅委員会」とそっくりだ。これについてはあとで別の記事で取り上げるかもしれないが、今回の話題とは直接関係ないので、やめておくことにする。
もちろん、禁煙教育そのものについては文句をつけるつもりない。私自身もタバコを吸わないし、煙たい思いをしているほうだから。現実にタバコが原因で健康を害している人が多いわけだし、多くの人がタバコを吸いはじめたことを後悔しているという現状を考えれば、タバコを吸い始めるまえにタバコについての確かな情報を教えるというのは大事なことだと思う。いうまでもないことだが、それを知った上で、どうしても吸いたいというのは個人の自由だ。
ここでは、前提として禁煙運動は政策的にも倫理的にも正しいということにしよう。問題は、もし正しいとしても、それが疑似科学(敢えて疑似科学と呼ばせてもらいます)を利用して主張されることを見過ごしてもいいのだろうか?
いろいろ意見はあると思うが私はよくないと思う。もしかしたら私は疑似科学に過敏になっているのかもしれない。
私はこのような疑似科学を利用した教育がよくないと思うのは、それが「本当に面白い話」を隠してしまうと思っているからだ。
ひとまずタバコが体に悪いかどうかという話はおいておいて、なぜタバコの葉にニコチンなる物質が含まれているのか考えてみると、おそらくは虫に食べられないように毒物としてニコチンを作っているからだろう。実際にニコチンは殺虫剤としても使われているという。ニコチンを作ることはタバコにとっては面倒なことだろうが、食われるよりはましだ。進化の過程でそのような性質が備わってきたのだろう。
ところが面白いことに、このタバコの葉をバリバリ食べてしまう虫がいるという。その名もタバコガ。そのままの名前です。この虫にとってもニコチンの毒を無効にするというのは、それなりのコストがかかる適応だと思うが、そのおかげで誰も食べないタバコという大きな資源を独り占めにすることができるのだ。このタバコガがタバコの葉を食っているところは子供には見せられませんね。
他にもこのように毒性の物質を生産して、昆虫や鳥から自分を守っている植物というのは多い。それらの多くは人間にとっても毒だが、まれに人間にとっても有用なものになる場合がある。人間にとってはほどよいスパイスも、タバコなどの嗜好品も、その多くは昆虫にとっては毒なんだろう。そして多くの薬用植物もそうなのかもしれない。
人間によるこれらの植物の利用は進化論的には適応ではない。人間がアフリカで現生人類にまで進化を遂げるあいだ、これらの「刺激的な植物」とは、ほとんど無縁でいたんだろう。人間が新しい世界に踏み出していく最前線で、これらの「刺激的な植物」をどんどん取り入れていった。「刺激的な植物」は同時に「エキゾティックな植物」ともいえる。長年かかって得た適応ではないがゆえに、ある種の植物はドラッグにもなるのだろう。
合理的な考え方を教えずに「虫にとってタバコは毒なんだから、人間にとっても毒」という例え話を教えるだけで終わってしまっては、本当に興味深い世界の不思議さから目をそらしてしまうことになるのではないだろうか。
私は物語という装置を使って世の中をみることを否定したいわけではない。ダンゴムシを擬人化してタバコの害を語ることはよくないことだろう。しかし、それも使い方次第だと思うのだ。私が上にあげたタバコの適応の話にしても、「タバコが毒を造って身を守る」といったような擬人化した表現がある。もちろんタバコがそのような意図をもっているわけではない。しかし、そう考えることで理解する助けになることもある。
本自体はずっと前から出ていて、知っていたんですけれども、amazonのベストセラーリストにあがっていて、なんでかなと思って調べてみたら、どうやらあるテレビ番組で、あるタレントがこの本を紹介して、興味を持った人が増えたらしい。
「ありがとう」のように肯定的な言葉を見せて水を凍らせると美しい結晶ができる。「ばかやろう」のように否定的な言葉を見せて水を凍らせると崩れた結晶ができる。
これについては、科学的な根拠がないとか、著者がこの本を商売の種として使っているとか、同じ著者による本がトンデモ本大賞にノミネートされたりとか、いろいろいわれてるんだけど、ここではそれについては追及しない。そのタレントやテレビ番組にも含むところはありません。知らないし。
これだけの話だけだと、このブログに記事として書くことはなかったろう。ただ、あるエセ科学の本が売れている、というだけの話だ。何を信じようがその人の勝手だし、フィクションをわかって読んでいる人もいるかもしれない。「これはただの寓話だ」という、とってつけたような意見を言う人もいる。「人という字は二本の棒が支えあって出来ています。だから、人は助け合って生きていかなければなならないのです」というお説教には、科学的な事実は含まれていない。人という字と人間関係のあり方に、何がしかの関係があったとしたら、かなり怖い。この手の屁理屈は嫌いなんだけど、しかし寓話としては成り立っている。「水は答えを知っている」という本に書いていることもその手のお説教と同じなんじゃねーの?
問題は「じゃあ、架空の寓話としてこの本を読んだ場合、どう評価されるべきなのか?」ということだ。物語というものは別にウソがあってもかまわない。ウソかどうか、それ自体は問題ではない。しかし、物語には世界観と人間観が重要だし、それらを提示するのが物語の機能だと思うんだけど、この本で提示されている世界観を見てみると、やっぱり薄っぺらで、どうしようもなく陳腐なものなんだよね。そりゃあ、やさしい言葉をかけてもらえれば、誰だって嬉しいし、それによって自信と勇気をもらうことだってあるだろう。ちょっとでも感謝していることきは「ありがとう」という言葉をどんどん使えばいいと思うし、自分でもそう心がけている。でもさ。だからといって言葉そのものに力があるということではならないでしょ?amazonの評者の一人が書いてたけど、「ばかやろう」という言葉にだって愛情をこめることもあるだろう。反対に「ありがとう」という言葉に慇懃無礼さを感じることだってあるだろう。
話し手の意図を離れたところに言葉の美しさは存在しない。言葉は人間を操るプログラムではない。人間は言葉というプログラムを実行するコンピュータではない。言葉は、自己と他者の間、あるいは自己と自己との間の、思考の伝達を行うためのインターフェイスだ。言葉は使えば使うほど、手垢がついてきて意味も変容する。それこそが言葉の本質であり、不思議さであり、素晴らしさなのだ。
この本の世界観は、言葉そのものを「美しい言葉」と「醜い言葉」に分類できるとする、平板なデジタル思考によって成り立っている。
出来の悪い寓話。これがこの本に対する公平な評価だろう。表面だけを見て本質をみようとしないこの手の薄っぺらな二元論は「こんにちわ撲滅委員会」にも共通する。ただ「こんにちわ撲滅委員会」と違って、他人を貶めてつまらない優越感を得るためにエセ科学を利用しているわけではないので、こっちのほうは罪はないのかもしれない。
読売新聞のニュースサイトに「認知症予防は運動・栄養・昼寝…厚労省で研究データ」という記事が載ってた。
記事の内容をかいつまんで言うと、軽い運動をしてDHAなどの栄養を取って昼寝をした人、つまり生活習慣を改善するように指導された人とそうでない人を比べてみたら、前者の方が認知症の発症率が低かったという結果が得られたそうだ。こういう話を聞くと、普段の自分の生活習慣を思い出してみて、ちょっとあぶないかな、と思ったりもする。
ところで認知症に関してこういう研究結果が報告される一方で、計算ドリルとか読み書きのテストなどのいわゆる「脳トレーニング」をすれば、認知症の予防に役立つ、と主張する人もいる。
疑問に思ったんだけど、本当のところどっちが正しいんだろう。いや、こういった問いかけは不公正かもしれない。というのも「どっちとも正しい」ことだって、もちろんあるからだ。
そこで脳トレと認知症の関係についてちょっと調べてみた。といってもWebを検索しただけなんだけどね。ところが、いろいろ調べたんだけど、脳トレをやったら何パーセント認知症が予防できたかって話はなかなか出てこない。私の調べ方が悪いのかもしれないし、もちろんWebに乗っかってるのは情報の一部に過ぎないので見逃しているかもしれない。ただ、「脳トレをすると認知能力を測るテストの点が向上した」というデータはあるみたいだ。「なるほど。だったら認知症予防に脳トレは効果があるんじゃない」と思いたくもなるが、一概にそうともいいきれない。一時的に認知能力が向上するのと、認知症が予防できるのとでは全く意味が異なるからだ。
「脳を鍛えれば認知症が予防できる」というのは、直感的に受け入れやすい話だ。体だって鍛えれば強くなるし、脳だって同じことじゃないかと思うのは自然な発想だ。現に子供は勉強することによってどんどん認知能力が向上するでしょ?
しかし、大人の脳って本当にそんなものだろうか?ひょっとしたら大人の脳はポンコツ自動車なのかもしれなくて、使えば使うほど故障する危険性が高まるのかもしれない。この元記事によると、少なくとも昼寝には効果があるみたいだ。もって回った言い方をしているようだけど、実際のところ何が効果があったかなんてのを、一つだけ要素を取り出して評価するのは難しい。もし、大人の脳がポンコツ自動車みたいなものだとすると、認知症の予防のためには「鍛える」という発想ではなく「貴重な資源をムダなく使う」という発想が必要になってくる。脳トレをやっている人は、そのような貴重な資源を計算のような作業に無駄遣いしてるのかもしれない。
脳トレに関して今言えるのは、寝不足や運動不足にならない程度にやれば一時的な効果はあるし、ひょっとしたら認知症の予防に役立つかもしれない、ということぐらいだろう。
で、なんでこんなこと書いたかというと、この読売新聞の記事が出るちょっと前に、某テレビ番組で読売新聞(皮肉にもこの記事が掲載された新聞)の橋本とかいう偉い人が出てきて「本を読めば認知症(アルツハイマーだったかもしれない)になんかならない!」って言ってたんだよね。そのときは「そんなこと言っていいのかなあ」とは思っていたものの、なんか根拠があって言ったんだろうぐらいに思ってたんだけど。でもね。今回いろいろ調べたけど「本を読めば認知症にならない」なんて話はどこにもなかった。この人は何を根拠にこんなこと言ったんだろう。
たぶん、この橋本って人は本を読むのが好きなんだろう。だから「本を読むと認知症にならない」と思いこみたいんだろう。まあ別に本人がそう思いこんでいるのは勝手だ。でもね。日本中が見ているテレビ番組の中で、根も葉もない俺理論を、さも真実のごとく言いふらすのって、よくないんじゃないかな?この人は気づいていないかもしれないけど、こういう不確実な知識が蔓延すると、認知症に対する偏見が深まりかねないし、本当に必要な予防対策が遅れる可能性だってあるんだよね。
こんにちわ撲滅委員会」の会員さんたちの書いているものを読んでいると、痛々しい欧米コンプレックスにまみれた言説に気がつく。
こんにちわ撲滅委員会」の管理人自身が、「Link Freeとは、和製英語で・・・」などと、まるで和製英語そのものが悪であるということに、まったく疑問をいだいていないようで、読んでいるこっちが恥ずかしくなってくる。当人は恥じいるどころか、その知識を自慢しているようにすら見受けられる。
「英語の冒険」という本で、メルヴィン・ブラッグが言っているように、言語の規範の押しつけは、「階級意識と俗物根性」に容易に結びつく。欧米では階級意識というものがいまだに根強いが、日本では、この階級意識というものが、欧米に対する劣等感という歪んだ形であらわれることが多い。そのことを「こんにちわ撲滅委員会」は、改めて思い出させてくれた。
先日も「こんにちわ撲滅委員会」を肯定的に紹介していた、あるブログで、一つの髪型を評して、「これはアメリカでは田舎もんの代名詞です」なんてことを書いている人がいた。
同じことは、表記の基準についてもいえる。もし欧米人が効率の悪い表記方法を採用していて、識字率の低さに悩んでいるというのなら、効率のいい我々のやり方を、彼らに教えてあげるべきだと思う。和製英語でも、いいものがあったら、どんどん教えてあげよう。
彼らの議論のおかしさは、その言説のなかの欧米文化の部分を、アジアやアフリカなどの、その他の文化に置き換えてみればよくわかる。たとえば、
「そんな髪型して恥ずかしくないのですか?そのような髪型は、インカ帝国では、奴隷の印とされていたのですよ」
といったように言い換えれば、それらがばかばかしいジョークになってしまうことから、そのことを理解していただけると思う。
この会のホームページで「悪い景観100景」ってのがあって、いろいろと醜い景観を有する場所が指摘されている。マツモトキヨシの看板だの、日本橋の高速道路などが槍玉にあげられている。
この会については、敢えてコメントはしない。勝手にやればいいと思うだけだ。ただ一つだけ言えるのは「どこの世界にも、この手の人たちはいるんだなあ」ってこと。
下の写真は、某駅前の宝くじ販売所を、私が撮ったものなんだけど、この手の景観っていうのは「美しい景観を創る会」とか「こんにちわ撲滅委員会」的な感覚からすると、いかにも槍玉にあげられやすいものだと思う。なにしろ色彩は派手で、欲望がそのまま丸出しになっていて下品だ。文化の蓄積や作者の修練と努力のあとといったものは、かけらも感じられない。しかし、私はこういうのがすきなんだよね。去年の万博で各国の展示物を見たときにも思ったんだけど、こういうのを見てるとある種の願いというか祈りのようなものが強く感じられる。人間の生々しい欲望の集積地という点では、宝くじ売り場は神社と同じだ。だから、宝くじ売り場に、鷲(おおとり)神社の酉の市の熊手や、今宮戎神社の十日戎の笹と似たような色彩配置があったとしても別段不思議ではない。私にとっては、それらは等しく興味深いものだ。
だから「悪い景観100景」と聞くと、むしろ積極的に写真を撮りに行きたくなる。「悪い景観100景」の写真をたくさん撮って、できればなんらかの形で公開できればと思っている。
表記方法を評価する基準として、以前の記事で、記述者から読者にどれくらい正確に意図を伝えることができるか、という点を上げた。それを表記方法の「完全性」と名づけた。そのときは触れなかったが、表記方法を評価するうえでの、もうひとつの重要な基準は、「その表記方法を取得するのに、それだけ容易に取得できるか」という点である。しばしば、この両者は相反する関係にある。たとえば、取得が簡単な表記は意思をすばやく正確に伝えるという意味では、劣ることがある。しかし、取得が容易な表記方法が、必ずしも完全性で劣るというわけではない。取得が容易で、かつ伝達の効率が高い表記とは、どのようなものなのだろうか?
読み書きが人間が発明したものである以上、表記方法はエンジニアリングの対象となるはずだ。優れた設計をなされた表記方法では、習得が簡単な表記方法から、完全性の高い表記方法に、段階的に移行ができるはずである。
これは、コンピュータのCUIとGUIの違いを例に出すとわかりやすいだろう。私が初めてMacintosh SE30を買ったころは、GUIは珍しいものだった。一部の人たちからは、「遊んでいるようにしか見えない」とか「おもちゃみたい」とかよく言われたものだ。マウスを持って操作するのは、とっつきやすいが、キーボードから手を離す必要があるために、キーボードによるコマンド入力操作に慣れている人には煩雑に感じる。これは事実である。しかし、Macintoshのキーボードには、その名もコマンドキーというものが存在しており、そのコマンドキーと他のキーを組み合わせることによって、よく使用するコマンド操作をキーボードだけで起動することが出来る。そして、多くのコマンドでは、コマンドを履行するための選択オプションを入力するためのダイアログが表示され、必要なオプションをユーザーが入力することが可能になる。慣れてくれば、これらの操作はほとんどキーボードだけで可能になる。もちろん、このことはWindowsでも同じであり、現在Windowsを使用している人にとって説明するまでもないことだと思う。習熟した使用者がキーボードのみを用いて行う操作自体は、CUIからコマンドを入力して引数にオプションを与えるものと基本的には同じだ。ただ、その操作を習熟するまでの段階が、GUIでははるかに容易なのだ。
翻って表記の問題に戻ってみると、このような段階的な習熟といったことを考えた場合、表記方法の画一化は、効率を高めるどころか、むしろ、取得にかかるコストを増大させるだろう。そして、学習のコストの増大化は、読み書きを習得できるコストを払える人とそうでない人の格差を広げる可能性がある。読み書きは伝統の継承や個人の趣味といった問題ともからんでくるが、「読み書き能力を取得することがあらゆる人間にとっての権利である」とするならば、エンジニアリング的な視点に立った議論が必要になってくる。すでにそのような難しい表記方法を習得した「知的既得権の所有者」にとっては、より習得が容易な表記の登場は脅威に感じるだろう。しかし、自分の立場を尊重しすぎるあまり、読み書きの取得時のコストを無視した議論を行うと、「伝統の継承」ではなく「因習の押し付け」に陥る危険性があるだろう。
なぜなら、こんにちわ撲滅派の人と話したときに、私はしばしば歴史的仮名遣いの表記方法を例に出すことがあるが、彼らは一様に「そんなの歴史的仮名遣いじゃないですか」といったような反応を示す。歴史的仮名遣いは古臭くて非合理的な遺物だと思い込んでいるようなのだ。学校で教える日本語を「正しい日本語」とし、日常生活に障害をきたさないように表記の標準を定める必要があるという、いわば教育的な観点からすると、歴史的な仮名遣いは「正しくない日本語」なのだろう。
それでも私は、歴史的仮名遣いは「正しい日本語」だと思っている。むしろ、その意義をもっときちんと学校で教えるべきだとすら考えている。時期としては中学校に入ってからでいいと思う。もちろん中学校になれば国語の授業で古典を読ませるが、歴史的仮名遣いの意義についてまで、まとまってきちんと教えられることはほとんどない。
たとえば「今日」という言葉に音読みでかなをふる場合を考えてみよう。現代仮名遣いでは「きょう」と振る。歴史的仮名遣いでは「けふ」とふる。小泉今日子は「こいづみけふこ」となる。この表記を見て、なんとなく濃罪毛深子という漢字を想像した人がいたとしても、その人を責めることはできないだろう。
正直いうと、子供のころ私はこのような表記に違和感を覚えたものだった。現代仮名遣いを教わって慣れ親しんできた人間で、歴史的仮名遣いに慣れてない人は、この表記に違和感を覚えるだろう。しかし「今日」に「けふ」と振り仮名を振るのは、「今朝」に「けさ」と振り仮名を振るのと同じという意味では、一貫性がある。さらに、「今」という漢字に「け」を振り、「日」という漢字に「ふ」というかなをふることにより、漢字とかなの対応が一対一に対応しているという意味では、合理的なのである。これだけ一貫性があって合理的で、なおかつ「本来の使われ方」にそった仮名遣いにもかかわらず、「けふ」という振り仮名には違和感を覚えてしまうものなのだ。げに恐ろしきは習慣である。
このことから、一般的に言って、違和感と「元々の使われ方」には直接の関係がないことが、お分かりいただけると思う。何度も言ってきたが「こんにちわ」に対する違和感とは単に慣れの問題なのであり、正当化されるべきものではないのだ。ところが、こんにちわ撲滅委員会では「こんにちわ」というたったひとつの例をもとに、違和感と「元々の使われかた」には相関関係があるかのごとく主張し、さらにはその相関関係を因果関係に、無反省に昇格させてしまっている。ここに合理的思考のかけらもないことは明らかである。さらに「英語でHelloと書くんだから、日本語で『こんにちわ』と書いてもはおかしくない」などとのんきなことをいっている。あまりにもひどいので、最初読んだときは「面白くないジョーク」だと思ったぐらいだ。
「こんにちは」に限っていうと、「こんにちは」の「は」に助詞としての意味が失われている以上、「こんにちわ」という表記にも十分に意義がある。
結局のところ、これは個人の趣味の問題、もっというと信仰の問題なのだ。「検証」などするのはばかげている。
ところで、あらゆる信仰に関して以下のガイドラインを設けることには同意していただけると思う。自分の信仰を他人に押し付けてはいけない
信仰を正当化するのにエセ科学を援用してはいけないこんにちわ撲滅委員会の会員さんたちの言動は、このガイドラインにすべて抵触する。私は信仰を否定しない。しかし、恐ろしいのは彼らが自分の信仰を信仰と思っていないことである。原因はこんにちわ撲滅委員会に書かれている「検証」という名のエセ科学にある。信仰とエセ科学が結びついた瞬間、それは狂信になる。自分の信仰に合理的な根拠が得られたと思った瞬間、人間は残酷になる。こんにちわ撲滅委員会がカルト化したのは、当然のなりゆきである。
さて、なぜ私が歴史的仮名遣いの意義を学校で教えるべきと考えているか、お分かりいただけただろうか?現代仮名遣いというものが、恣意性の塊であり、妥協の産物であることを知り、歴史的仮名遣いの意義を知ってさえいれば、「こんにちわ」という表記に対する自分の違和感を相対化することが可能であったろう。そのためにこそ歴史的仮名遣いの意義を教えるべきなのだ。やはり無知は罪である。歴史的仮名遣いを教えることによって表記が乱れる、と心配されるかたもいるかもしれない。しかし、表記の乱れを恐れるより、無知による偏見を恐れるべきだと思う。
私は「こんにちは」を使う。いつか「こんにちわ」が認められたとしても「こんにちは」を使い続けるだろう。しかし、それが一種の信仰だということを知っている。
などがある。これらは、実際にスモール・ワールド・ネットワークを研究する科学者が書いたもので、前者はブキャナンが「平等主義的ネットワーク」と読んでいるネットワークの発見者で、後者は「貴族主義的ネットワーク」と呼んでいるものの発見者による著作である。ジャーナリストであるブキャナンは、この「複雑な世界、単純な法則」のなかで、バランスよく両者を紹介し、この分野で現在進行中の研究成果の見通しをよくしてくれる。
この本を読んで思ったのだが、ネットワーク理論は、言語の研究にも大きな寄与をする可能性があるんじゃないだろうか。
ひとつ例をあげたいのが、スモール・ワールド・ネットワークで起こる雪崩(カスケード)と呼ばれる現象だ。これは、ひょっとしたら測定することすら不可能なほど小さなゆらぎから起こる急激で大規模な変動のことで、ある種の構造をもつネットワーク内部で、入力と出力が比例しないいわゆる非線形のフィードバック回路が活性化することによって起こりえる現象だ。
注目すべきは、もし言語が同じスモール・ワールド・ネットワークであり、内部的に雪崩現象を起こしやすい構造を持っているとするならば、社会的な変化や文化的な波にさらされているといったような大きな原因はなくても、突然何の前触れもなく大きな変化が言語にも起こりえる。それこそ、言語自体に意思でもあるかのように「自発的に」振舞うことがありうることを予言する。ネットワーク理論は、そのような今まで説明不能とされてきた不思議な現象に適切な説明を与えてくれるかもしれない。
次に、言語がスモール・ワールド・ネットワークであり、雪崩現象を起こす可能性があるということを前提にして、言語の分岐の年代を測定するという問題を考えてみよう。物理学では、炭素14などのように、時間が経過するごとに崩壊する同位体元素の割合を調べることによって、時間の測定を行う。生物学では、遺伝子の変化する割合によって時間の測定を行う。いずれにしても時計として使用しているのは、ランダムに一定の割合で変化する定量化可能な性質である。
今述べたように言語の歴史には、大きな変化が起こっている「非平衡時代」と呼ばれるべき時代と、比較的変化の少ない「平衡時代」があり、ランダムに一定の割合で変化しないものなのかもしれない。この変化の速度の急激な変動は、古生物学の世界では、スティーブン・J・グールド氏によって「ワンダフル・ライフ」という本で紹介され注目された「カンブリア紀の爆発」が思い出されるが、それと同じようなことが言語の世界でも起こりえるのかもしれない。さて、もしそうだとすると、言語の変化の割合と調べて言語の分岐年代を割り出すという手法は、やっかいな問題を抱え込んでしまうことになる。なぜなら、そうなったら時計の針に相当する言語の変化が時間に比例しなくなるからだ。ある瞬間に突然、針の進み方が速くなったり、突然針の進み方が遅くなったりする時計を使いたいと思うだろうか?進み方が一定でない時計を信用することはできない。その危険を避けるためには、言語の分岐年代を測定するための特徴の抽出を極めて慎重に行わなければならないだろう。条件としては、ネットワーク的には他の要素とのつながりが薄く、トポロジー的にいうと離れ小島になっており、それゆえに淘汰圧の大きな変化にさらされることがなく、さらには測定する時間スパンに都合のいい頻度で、ある程度ランダムに変化がおきている、そんな特徴を抽出しなければならない。これは随分ハードルの高い条件のように思われる。もしかしたら、そんな都合のいい特徴を抽出することは不可能なのかもしれない。結局は「分岐してから1000年以上経った言語の分岐年代を測定することは不可能である」といったようなつまらない結論が導き出されるのかもしれない。
いずれにせよ、そのような特徴を抽出することが可能かどうかを知るためににも、まずは言語のネットワーク的な構造を明らかにする必要がある。
複雑系の研究者は、もっと言語にも興味を持って欲しいと思う。生物学とか経済学に行く人は多いんだけど、なぜだか言語のほうに行く人は少ない。ちょっとこれは残念なことだと思う。この本のなかでも言語のネットワーク的構造については、その貴族主義的側面について少し触れられている程度だ。複雑系の研究者にとって言語研究の世界には、大きい未開拓な領域が横たわっているように思うのだが。
★脳のなかの幽霊、ふたたび 見えてきた心のしくみ V・S・ラマチャンドラン (著), 山下 篤子 (翻訳)
この本を読んで、私がここで書いてきたことに、裏づけがされたと思ったり、逆にちょっと考えが足りなかったなと思うことがあったので書く。
ラマチャンドランは、この本のなかで、共感覚など、現実に存在する不思議な脳内現象の観察から、芸術の起源についての彼自身の仮説を披露している。
ここでは詳しくは述べないが、まあ、ピンカーが「人間の本性を考える」で書いていた路線と同じで、芸術の基盤を人間の視覚的本能に求めている。ただし、ピンカーはついでに、いわゆる「現代美術」と呼ばれているものに対してかなり批判的で、コテンパンにやっつけている。それに対して、私は「ちょっと違うんじゃないの?」と思ったわけで、これについては前に書いた。
一方のラマチャンドランは、現代美術に関しては「牛のホルマリン漬け」の例を引き合いに出して、現代美術が持つ、ジェットコースターと同じような、恐怖の予行演習としての存在意義にも一定の理解と可能性を示している。また、伝統的かつ一般的な視覚芸術と、その他のいわゆる「ジェットコースター芸術」を含む大きな意味の芸術を分けて考えるべきではないか、ともいっている。そういう面では私も同じ考えだ。ただ、ラマチャンドランが現代美術の積極的な理解者であるかどうかは、本書を読む限り疑問だが・・・。
私が以前、芸術が持つ意義の広さを示す目的で、バンジージャンプとか、ジェットコースターを引き合いに出したのは、たまたまわかりやすい例としてあげただけだ。私は「ジェットコースター芸術」の意義を認めたとしても、それだけではまだ芸術の意義をすべてカバーするには十分でないと思っている。
ただ、すくなくともこれだけはいえる。芸術とは、頭の中にある雛形が、外に形として現されたものである。われわれは、それらの具現物を作りたくなったり、それらを見て時にここちよくなることがあるらしい。
なぜ気持ちよくなるのか?それらの具現物は、役に立つどころか、じかには役に立たないガラクタばかりなのにもかかわらず、なぜそんなものを作りたいと考えたり、見たいと思ったりするのか?。
ひとつの説明としては以下のようなことが考えられるだろう。世の中が変化をして、何かの対応を迫られたときのために、頭のなかで雛形を動かす必要がある。しかし、環境が変化した場合は、今までの発想では最適な解答を得られない可能性がある。そのときのために、できるだけ発想あるいは機転が及ぶ範囲を広げておく必要がある。そのために芸術を愛する気持ちが生き残ったのかもしれない。環境がかわったときに役に立つ発想は、環境が変わらないかぎり、役に立たないことがほとんどだ。
ラマチャンドランさんは、この本の中でもう一つ重要な仮説を披露しています。言語の起源に関するものです。本来なら、このブログの性質上、こっちのほうを大きく取り上げるべきなんでしょうけどね。
脳の表面の地図に線を結んだりして、脳神経科学者らしい発想だなと思ったりしました。で、その説について私がどう思ったかというと「よくわかりません」なのだ。
あと、ブーバとキキとか、言語学者が触れないようにしてきた、いわゆる「名は体を表す」的な話にも触れています。ところで、ブーバとキキでググると「電撃戦隊チェンジマン」というのがいっぱいひっかかってきます。いったいなんなんでしょうね。ラマチャンドランさんの説を検証する一つの材料になりそうです(笑)。
日本語の特徴を示して、それを日本人の特殊性に結び付けてみせるという、アクロバティックなエッセイが量産されている。たとえば、このようなエッセイは誰でも読んだことがあるだろう。「出る杭は打たれる」ということわざを取り上げ、それを日本人の個性を嫌う性向と結びつけ、これからの国際社会に向けて、他人と異なることを恐れず、突出する勇気を持つべきだ、といったような結論に結びつけるものがある。
「こんにちは」という挨拶言葉が「こんにちは云々」という挨拶の省略形であるという語源を説明したうえで、「このような挨拶言葉が成立するのは、話し手が最後まで言い切らないことによって、聞き手に押し付けがましさを与えない配慮しているのであり、その一方で、聞き手としては最後まで聞かなくても相手の言うことを推し量ることができる。そのような繊細な感性を日本人は昔から持ちあわせてきたのである」と続ける。この例は今、私がでっち上げたものだ。
これらのエッセイは、目をつぶって辞書を開き、指でさした言葉を選んで、語源や外国語などの薀蓄をちりばめ、あとは日本人の特徴(といわれている性質)と結びつけ、最後に「これからのグローバル化社会にむけてどーたらこーたら」とか「繊細な感性を大事にしよう」とか、適当に我田引水すればいっちょう上がりということで、小論文とかエッセイのネタに困ったときにはとても便利である。
このような日本語エッセイにいちいち難癖をつけるつもりはない。ただ問題があるとすれば、それらのほとんどすべてが実証性にかけており、個人の思い込みをよりどころにして書かれている、という点である。「日本語は難しい」とか「日本語は論理性にかける」といったような、よく言われる説についてすら、もっともらしい根拠が示されたことはない。これらの「お手軽日本語エッセイ」が、日本人論、特に日本人特殊論と結びついている場合は、まずは単なる言葉の遊びだと思って読んだほうがいいだろう。
ただし、これらの言説がまぐれあたりをしている可能性も否定できない。じつは、通俗的な日本語特殊論への批判を抜きにして、「日本語論+日本人論」はとても興味深くて難しい問題と関わっている。それは、言語と思考方法はどのように相互作用するのか、という問題だ。
以前、パオロ・マッツァリーノ氏の著作「反社会学講座」への書評において、エセ社会学とエセ言語学の類似性について書いたことがあった。
残念なことだが、エセ社会学のような存在は、言語学に限らず、人文科学あるいは社会科学のあらゆる分野に見られることのようである。
ここで注目したいのは経済学だ。社会科学のなかで最も陰気で、もっとも忌み嫌われており、まるで科学者によって、社会科学の楽園に送り込まれたスパイのごとき存在である。
人間の推論能力は、他人の抜け駆けを見抜くように発達してきた。ここでは詳しく説明しないが、コスミデスが示した4枚カード問題に関する実験は、このことを強く暗示している。
「おいしい思いをしている人間をたたけば、自分が得をする」とか「今、我慢をすれば、将来楽になる」といった言説は、限られた資源をめぐって争っていた狩猟採集生活時代であれば、確かに正しい。しかし、人間が農耕を始めて余剰生産が生まれ、分業が発達し、ついには産業革命にいたるまでになってみれば、その推論は必ずしも正しいとは限らない。現代の人間は商取引を行う。商取引は、取引をする当事者双方にとって利益があるからこそ行われる。こうなってみれば、長い狩猟採集生活の時代に取得してきた論理操作手法が、現実の経済活動と齟齬をきたすことは、避けられない。「おいしい思いをしている人間に、さらにおいしい思いをさせて、自分も得をする」とか「今、我慢をしないことが将来の自分に利益をもたらす」ということが、起こりえるのだ。もちろん、このような言説を非道徳的だと思った人がいたとしても、その人を責めるわけにはいかないだろう。
このような、人間の本能的な論理操作に頼った経済の理解のしかたを「直感経済学」とよぶことにする。直感経済学は経済学と名がついているが、心理学の一分野である。
これからは、直感経済学の研究をもっと積極的に行うべきだろう。それによって、なぜ経済学が多くの人に理解されずに、多くの施政者たちによって誤った経済政策が採用され続けるのかといった問題に、示唆を与えてくれるからだ。
そして、個々の人間が、そのように時には非合理な考えをする存在であるという前提に立ってこそ、本当に役に立つ経済学が生まれるだろう。
表記方法を評価するにはいくつかの基準が考えられるが、もっとも基本的なのは、その表記によって、どれぐらい正確に、記述者から読者へ意図が伝えることができるか、という点である。ここでは、それを「完全性」ということにする。
ごく、おおざっぱな方法を説明すると、標準表記で記述された文章があったとして、その文章を測定対象の表記に変換し、さらに、逆にその文章を標準表記に再変換して戻したときに、元の標準表記で書かれた内容が保たれている割合が、測定対象となる表記方法の完全性とすることができる。
当然のことながら、標準表記自体は、変換する必要がないわけであるから、完全性は1である。これは、標準表記がこれ以上ない完全性を持った表記であるという前提があって初めて成り立つ議論である。
人間は、外の世界にある物の雛形を、頭の中に再構築する動物だ。頭の中の雛形を動作させることによって、何か事を行う前にテストを行い、ぶっつけ本番の危険を避けることが出来る。
その機能は人類の進化の過程で、最初はある環境のもとで後天的に取得することが必要とされていたものが、だんだんと遺伝子に組み込まれていったのだろう。
その雛形を動かしてテストを行う際に必要な媒体が「言語」であり、テストの内容の記述が「物語」である。物語の登場人物は、われわれの代わりに成功し、失敗する。ダーウィニズムの世界観によると、生物は死の数だけ進化するということだが、人間は頭の中で、膨大な仮想の死を発生させることによって、文化的進化の速度を早めているということが言える。
頭の中の雛形は外の世界そのままの写しではない。たいていの場合、ある特定の特徴が抽出されデフォルメされている。面白いことに、しばしば頭の中にあるデフォルメされた雛形が、外の世界にはみ出してくることがある。
この本では、桜という花が日本人の頭のなか理想化され、「桜語り」という「もの語り」が作られ、最後にはその「桜語り」が、現実の桜を変えて、ソメイヨシノという「革命の花」を作り上げてしまう過程が詳細に記述されている。
ソメイヨシノが出現し、桜と日本人の関係が現実の花を改良するまでにきた段階で、一つのポジティブフィードバック回路が作用する。それは、現実化されたソメイヨシノが、さらに日本人の「桜語り」を改変し、その「桜語り」がソメイヨシノを増殖させる、という動きだ。一旦そのループが発動すると、外の世界と頭の中の世界がまるで競争するかのごとく、お互いを変更し始め、平衡状態に達するまでそれが続けられる。
そして、重要なのは、この段階で、人工と自然といったような二項対立の境界があいまいになってしまうということである。同様のテーマを扱った最相葉月の「青いバラ」は、残念ながらこういった視点にかけており、人工と自然の対立という発想から抜け出ていなかった。
純粋に自己複製子だけを取り上げ、「ソメイヨシノ遺伝子」と「桜語りミーム」が表現型を作り、相互作用する系として、この現象を捉えた場合、ソメイヨシノと日本人は、ある種の花と昆虫のような濃密な共生関係を構築しているといえるだろう。また、あえてソメイヨシノ側からみた境界を広げてみせれば、「ソメイヨシノは、さくら語りミームに寄生された植物だ」という言い方も可能になる。これは真核細胞とミトコンドリアの関係に似ていて、当初は独立して生きていたミトコンドリアが、原「真核細胞」に寄生し、あるいは取り込まれ、長年共生関係を積み重ねるうちに、序々にミトコンドリア遺伝子が核に移動し、もはやミトコンドリア単体しては生きていけなくなった過程を思い出させる。境界の消滅がここでも見られる。
「ソメイヨシノ遺伝子」と「桜語りミーム」が共生関係を濃密にしていく回路を逆に作用させ、失われた二項対立を取り戻し、「本来のあり方」に憧憬を抱く気持ちは理解できるが、それは、あらゆる「桜語りミーム」を絶滅させる以外に道はない。
一切の「桜語り」をやめ、古代人が見ていたように、あるいは科学者が見ているように、一つの花として桜を見ることは、もはや不可能ではないだろうか。
万博会場でみた現代美術は意外に目を引くものだった。なんで意外だったかっていうと、こんなふうに現代美術も伝統工芸もごたまぜになって展示されるイベントは万博以外にはめったにないわけで、そうなりゃどうしてもお互いを比べてしまうし、東南アジアとかアフリカの濃いやつと比べられると、現代美術は負けてしまうんじゃないかな、と思ってたのね。実際、ぐるっと回って最後にインドあたりにきたときには、伝統工芸の力に圧倒されて頭が疲れきっていた。何でこんなに頭が疲れるのかというと、何せ彼らはとにかく見ているだけでやたらめったら話しかけてくる。そんなおしゃべりにいちいち反応していては頭がもたない。
「何が語りかけてくるって?人が作った物を見てるだけぢゃないか。ええ?おまいさん頭おかしいんぢゃないの」というかもしれない。いえね。もちろん実際に誰かが話しかけてくるわけじゃないよ。ただ、それを見ていると、話しかけてくるような気がするというだけなんだ。たとえば、ネパールにはマニ車というものがあって、それにはお経が書いてあって、ぐるぐるまわせるようになっているもんなんだけど、こいつを人がぐるーっとまわすと、そこに書いてある経文をを唱えたのと同じご利益があるというふうに信じられている。で、そのマニ車をみていると、それを回している人の願いとか祈りみたいなのがジワーッと感じられてくるわけ。
たとえば、おちゃわんでも何でもいい。そんなもんでも見ているだけで、日ごろ使っていた人の気持ちというのが伝わってくる。「食器を百年使うと意思を持つようになる」ってえ話があるけど、単なる迷信というよりそういうことなんじゃないかな?
特に歴史のある国の歴史ある物では、その語りかける量たるや並大抵のものではない。インドなんてうるさくてしょうがない。「もう、これ以上俺に話しかけないでくれ!」って感じ。
そうそう、現代美術だよ。現代美術も同じように語りかけてくるんだけど、語りかけ方が伝統工芸なんかとはちょいと違う。どっちかっつーと、理屈っぽくて、「私、思いますに・・・」とか「俺に言わせりゃ・・・」とか、「俺が俺が」的な主張が強すぎるように思う。
さっきもいったように、今回の万博では、どんな展示があるか知らずに観たんだけど、岡本太郎風に、いい意味で「なんだこれは!」と思った物体をいくつか会場でに見つけて、興奮して写真を撮りまくったりなんかしてたんだけど、あとで調べたら「だれそれの作品です」ってことがわかったりしてね。そういう意味では(どういう意味だ?)見ようによっては現代美術もすてたもんじゃないぞと、かように思ったわけです。
よーするにね。現代美術のダメなところって、実は美術館とか展覧会とかで繰り広げられる「俺が俺が」的な文脈そのものにあるんじゃないかな、と思ったというわけ。
現代人は、無意識のうちに、作者の意図を通して作品を見てしまう。でも、それってちょっと不幸なことなんじゃないだろうか?
この思考実験は言語の表記に関するもので、正確な名称は「表記の多様性に関する多層モデル」であるが、文脈が許せば「表記の多層モデル」あるいは単に「多層モデル」という省略した形で呼ぶこともある。
まず前提として、言語の理想的な表記方法を想定する。その表記方法を標準表記と呼ぶことにする。標準表記は、考えうる表記方法のなかで、書き手の意図をもっとも正確に表現する表記方法である。
このモデルにおいて、人は標準表記を直接読み書きすることはない。人はそれぞれ自分の好きな表記方法を用いて、読み書きを行う。標準表記は媒体として働き、それぞれの表記方法を標準表記に置き換えるのは、自動変換プログラムの仕事である。
例として、人物Aが人物Bに手紙を送る場合を考えてみよう。人物Aは表記Aを常用しており、表記Aを使用して手紙を書く。変換プログラムはそれを標準記法に変換する。つづいて変換プログラムは、標準記法に変換された手紙を表記Bに変換する。人物Bは表記Bで記述された手紙を読む。
この思考実験を通して、表記に関するいくつかの問題を整理し、いまだ知られていない問題をあきらかにすることができる。
「いとこんにゃくのどこが間違いなの?」と思われたあなた。反省してください。最も有名な日本語の設計書である広辞苑を見てください。
わかったかい。これで今日からあなたも「いとごんにゃく」派だよ。そして「いとこんにゃく」なんていってる人に、正しい日本語を教えてあげよう。特にすきやきを食べるときはチャンスだね。そんなときは、まず、こんな風にたずねてみよう。
と返されるかもしれないが、正しい日本語を守るためには、そんなことでめげていてはいけません。そんな場合は、続いてこう説明してみよう。
「うん、いや、だからシラタキともいう人もいるけど、『いとこんにゃく』っていう人も多いでしょ?ね?これ、実は間違いなんだよ。『いとごんにゃく』と濁るのが正しいんだよ。ちゃんと広辞苑にも載ってるしね。『いとこんにゃく』がこれ以上広まると、正しく『いとごんにゃく』と言ってた人が損をするでしょ?ね?『いとごんにゃく』を『いとこんにゃく』というのは、『ほしがき』を『ほしかき』というのと同じくらい幼稚な間違いなんだよ。はずかしーぞー。『いとこんにゃく』なんていってる人とは、いっしょには仕事をしたくない。ね?わかったかい。これからは正しく『いとごんにゃく』と言うようにしようよ」
そう説明してあげると、あなたの深い知識と洞察に対して、感動のあまり座は静まりかえるだろう。こうして、あなたは静寂のうちに正義が勝利したことを確信し、ほっと胸をなでおろすことだろう。
最初のエピソードが掲載されている「説文解字」は、前漢時代のいわば漢字字典である。この伝説は、文字というものが人間のパターン認識能力の基盤の上に成り立っているということをよく示していると思う。鳥や獣の足跡の形を認識することは、狩猟採集生活が長かった人類にとっては、重要な能力であったはずである。優秀な狩猟者は、動物の足跡から、その動物がいつどのくらいの速度でそこを通ったかなど、多くの情報を「読み取る」ことが出来る。文字を発明するにあたって、その能力が最大限に利用されることは当然の成り行きであったろう。もちろん人間が持っているパターン認識能力は、鳥獣の足跡を識別するためだけに限らない。植物の葉や茎に形から、毒草と薬草を識別する能力や、果実の色からその成熟度を判断する能力など多岐に渡る。
次の「淮南子」のエピソードであるが、不思議な伝説だ。人間が文字を発明してしまったのを見た「天」とか「鬼神」とかが、なぜか怒ったり泣いたりしているのである。「蒼頡くん、おめでとう」とかいって祝福してくれてもよさそうなものなのに。
われわれのことを案じて、新しいテクノロジーに警鐘を鳴らすラッダイトなのだろうか?それとも、自分たちの権利が失われていくことを嘆いている、知的既得権の所有者なのだろうか?
いずれにしても、われわれが鬼神といっしょに怒ったり嘆いたりしていても、何も始まらないことだけは間違いない。
この伝説でもうひとつ驚くべきことは、文字というものが人間(とはいっても蒼頡は目が4つもあるメフィラス星人みたいな顔した人なんだけど)の手によって発明されていたということを、作者が正しく認識していたということである。なぜ、神によって与えられたと考えなかったのだろう?
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なぜなら、こんにちわ撲滅派の人と話したときに、私はしばしば歴史的仮名遣いの表記方法を例に出すことがあるが、彼らは一様に「そんなの歴史的仮名遣いじゃないですか」といったような反応を示す。歴史的仮名遣いは古臭くて非合理的な遺物だと思い込んでいるようなのだ。学校で教える日本語を「正しい日本語」とし、日常生活に障害をきたさないように表記の標準を定める必要があるという、いわば教育的な観点からすると、歴史的な仮名遣いは「正しくない日本語」なのだろう。
それでも私は、歴史的仮名遣いは「正しい日本語」だと思っている。むしろ、その意義をもっときちんと学校で教えるべきだとすら考えている。時期としては中学校に入ってからでいいと思う。もちろん中学校になれば国語の授業で古典を読ませるが、歴史的仮名遣いの意義についてまで、まとまってきちんと教えられることはほとんどない。
たとえば「今日」という言葉に音読みでかなをふる場合を考えてみよう。現代仮名遣いでは「きょう」と振る。歴史的仮名遣いでは「けふ」とふる。小泉今日子は「こいづみけふこ」となる。この表記を見て、なんとなく濃罪毛深子という漢字を想像した人がいたとしても、その人を責めることはできないだろう。
正直いうと、子供のころ私はこのような表記に違和感を覚えたものだった。現代仮名遣いを教わって慣れ親しんできた人間で、歴史的仮名遣いに慣れてない人は、この表記に違和感を覚えるだろう。しかし「今日」に「けふ」と振り仮名を振るのは、「今朝」に「けさ」と振り仮名を振るのと同じという意味では、一貫性がある。さらに、「今」という漢字に「け」を振り、「日」という漢字に「ふ」というかなをふることにより、漢字とかなの対応が一対一に対応しているという意味では、合理的なのである。これだけ一貫性があって合理的で、なおかつ「本来の使われ方」にそった仮名遣いにもかかわらず、「けふ」という振り仮名には違和感を覚えてしまうものなのだ。げに恐ろしきは習慣である。
このことから、一般的に言って、違和感と「元々の使われ方」には直接の関係がないことが、お分かりいただけると思う。何度も言ってきたが「こんにちわ」に対する違和感とは単に慣れの問題なのであり、正当化されるべきものではないのだ。ところが、こんにちわ撲滅委員会では「こんにちわ」というたったひとつの例をもとに、違和感と「元々の使われかた」には相関関係があるかのごとく主張し、さらにはその相関関係を因果関係に、無反省に昇格させてしまっている。ここに合理的思考のかけらもないことは明らかである。さらに「英語でHelloと書くんだから、日本語で『こんにちわ』と書いてもはおかしくない」などとのんきなことをいっている。あまりにもひどいので、最初読んだときは「面白くないジョーク」だと思ったぐらいだ。
「こんにちは」に限っていうと、「こんにちは」の「は」に助詞としての意味が失われている以上、「こんにちわ」という表記にも十分に意義がある。
結局のところ、これは個人の趣味の問題、もっというと信仰の問題なのだ。「検証」などするのはばかげている。
ところで、あらゆる信仰に関して以下のガイドラインを設けることには同意していただけると思う。自分の信仰を他人に押し付けてはいけない
信仰を正当化するのにエセ科学を援用してはいけないこんにちわ撲滅委員会の会員さんたちの言動は、このガイドラインにすべて抵触する。私は信仰を否定しない。しかし、恐ろしいのは彼らが自分の信仰を信仰と思っていないことである。原因はこんにちわ撲滅委員会に書かれている「検証」という名のエセ科学にある。信仰とエセ科学が結びついた瞬間、それは狂信になる。自分の信仰に合理的な根拠が得られたと思った瞬間、人間は残酷になる。こんにちわ撲滅委員会がカルト化したのは、当然のなりゆきである。
さて、なぜ私が歴史的仮名遣いの意義を学校で教えるべきと考えているか、お分かりいただけただろうか?現代仮名遣いというものが、恣意性の塊であり、妥協の産物であることを知り、歴史的仮名遣いの意義を知ってさえいれば、「こんにちわ」という表記に対する自分の違和感を相対化することが可能であったろう。そのためにこそ歴史的仮名遣いの意義を教えるべきなのだ。やはり無知は罪である。歴史的仮名遣いを教えることによって表記が乱れる、と心配されるかたもいるかもしれない。しかし、表記の乱れを恐れるより、無知による偏見を恐れるべきだと思う。
私は「こんにちは」を使う。いつか「こんにちわ」が認められたとしても「こんにちは」を使い続けるだろう。しかし、それが一種の信仰だということを知っている。
言葉の使い方に対して敏感な人、言葉を使うことを職業としている人なら誰でも知っていることだが、「こんにちは」には丁寧語にあたる表現がない。「おはよう」には「おはようございます」がある。挨拶言葉ではないが「ありがとう」には「ありがとうございます」がある。「こんにちは(こんばんは)」は、いつでもどこでも誰に対しても「こんにちは(こんばんは)」だ。使い方によっては、ぶっきらぼうで投げやりな印象をあたえる言葉である。
尊敬語や丁寧語はただの飾りではない。話し手と聞き手、または話し手と対象物の関係を明確にするという意味がある。「こんにちは」にはそういった意味を付加できないのだ。「こんにちは」が「こんにちは云々」というフレーズが省略されて生まれたときに、大きな意味の変化があったと、私が考えるのもこのためである。
また、公的な文書には「こんにちわ」ではなく「こんにちは」を使ったほうがいいという人もいる。そのような規範を自分で決めて実践されることを私は否定しない。しかし、その場合には、「こんにちは」という言葉を使用すること自体が、多くの場合無作法になるということを自覚しておいたほうがいいと思う。私なら、公的な文書あるいはビジネス文書に「こんにちは」は一切使わない。私は古い人間なのだろう。
「こんにちは」は、お互いに顔が見える会話の中で使うことによって初めて効果を発揮する言葉といえるだろう。
であることに気づくだろう。そのことから、「こんにちは」の「は」にはすでに助詞としての意味は失われていることもわかるだろう。
「こんにちは=こんにち+は」と主張するのであれば、こんにちという言葉が英語のtodayの意味で使われている例を示さなければならない。「こんにち」をtodayという意味で使っている人なんているか〜?今では、こんにちという言葉は「現在」という意味でしか使われていない。逆に英語のtodayを日本語で表すとすれば、「きょう」または「本日」が使われることが多い。「こんにちは」はそれだけでひとつの言葉なんだよ。
最近は「ちわ」なんて略してるやつもいるしね。その場合も「ちは」と書いたほうがいいとでも言うのかな?ひどいのになると「ちーっす」なんていう人もいる。おーい、助詞はどこいったー?まあ、こういうくだけた省略形自体が許せないとか言い出しそうだな、繊細で心の小さな人たちは。「こんにちは」自体が省略形なんだけどね。
第一、「こんにちわ」を使う人がいること自体が、「こんにちは」の「は」が助詞として認識されていない証拠なんだよ。もちろん「こんにちわ」を使う人が「僕わ」とか書いていたら、その人はルールを認識していない人、または別のルールを適用している人だとは言える。でも、そんな人にはお目にかかったことがない。彼らはちゃんと基準となるルールを理解して使っているのだ。いや、むしろ理解しているからこそ、「こんにちわ」と書くか「こんにちは」と書くか、わからなくなるんだよ。
勘違いしないでほしいのは、私は言語は合理的であるべきだとは言っていない。むしろある基準では非合理であることが重要だと思っている。「こんにちわと書くと恥ずかしいですよ」などと注意してくれる人がいますが、心配いりません。私は「こんにちは派」です。私は言葉の持つ非合理性を愛しているのです。しかし「こんにちわ」を撲滅しようとしたり、他人を見下してつまらない優越感に浸りたいとは思いません。自分が多数派であることを確認して安心するのも、他人を差別視しているという意味では同罪です。
小学校において「こんにちは」あるいは「こんにちわ」を規範として教えるのは間違ってはいない。そういう意味ではのび太の先生は正しい。しかし、そこに加えられた説明には疑問がある。この説明は、上に述べたことからもわかるように、子供をあやすための屁理屈以上の意味はない。それこそ「こんにちはを使わないとお化けがでるぞ」と同レベルである。いや、むしろその方が罪はない。のび太に言語に関する誤解を植え付けたという意味で、この先生の罪は重い。
この文章を読んでいる学校の先生は、自信をもって「こんにちは」と教えてほしいと思う。しかし、その場をごまかすために、お手軽な屁理屈でもって子供たちを説得することが、偏見を育てることになるということは覚えていてほしい。もちろん子供にウソを教えることの恐ろしさは、現場で指導に当たっておられる教師の皆さんのほうが、骨身にしみて知っていることだろうと思う。
・英語でHelloがHalloでないのと同様、日本語の「こんにちは」は「こんにちわ」ではなく「こんにちは」でなければならない。
残念ながらこれは真である。最近の若い人は知らないかもしれないが、日本はかつて米国と戦争をやって負けたことがある。そのときにマッカーサーという偉い人に言われて「英語のルールはすべて日本語に適用しなければならない。フランス語のルールは決して適用してはならない」ということになったのである。
この規則は言語に限ったことではない。Web上での習慣でも同様である。米国でWebページをリンクするときに相手に許可を得る習慣がないので、日本でもそのような習慣をやめなければならない。
同様に、電車で大人がマンガを読んではいけないし、消費税率を上げなければならないし、コーラを毎日2リットル以上飲まなければならない。
これまで述べてきたことから、こんにちわ撲滅委員会で「検証」と称して書かれてあることは、間違った前提をもとにしたデタラメな推論であることがお分かりいただけたと思う。それでは、それらの虚飾をはいだあとに残るものはいったい何かというと、これまで「こんにちは」が習慣的に使われてきた、という事実のみである。しかし、この事実をもとに金輪際「こんにちわ」を使うなと主張することは、「言語よ変わるな」と唱えることと同じである。つまり、こんにちわ撲滅委員会が言っていることは、主張の名に値しない単なる個人的な願望にしか過ぎない。
もちろん誰にだってグチを言う権利はある。しかし、それが差別意識に結びついていることが問題なのだ。彼らは、「こんにちわ」を認めてしまうと「こんにちわ」を使う人をバカにする口実と、語源に関する役に立たない薀蓄を披露する機会がなくなってさびしい、と思っているわけである。これについては、「規則が大好きな人たち」でじっくり考えることにしよう。
この運動が冗談の範囲で収まっていればいいのですが、会員さんの意見のなかに、「こんにちわ」を使うひとをバカにしたような意見や、「こんにちわ」を使うひととは付き合いたくないといったような意見があるのを見ると、冗談の範疇を超えていることは明らかです。単なる懸念を超えて激しい憤りを感じずにはいられません。
なによりも問題は、なぜ「こんにちは」を使わなければならないかについて説得力のある説明が全くなされてない点です。「こんにちはを使いましょう。だってドラエモンにもそう書いているでしょう」などというのは、人をバカにしているとしか思えません。「こんにちはを使わないとお化けがでるぞ」とでも言ってくれたほうがまだ説得力があります。
さらに、反対意見を全く掲載しないというのも、大きな問題を含んでいると思います。無視するという行為もいじめの一種であることを思い出してください。
語源通りに記述することが正しいと主張するのであれば、仮名遣いをすべて旧仮名遣いに戻す必要がある。言語の変化が堕落であるというのであれば、日本語をすべて古語に戻さなくてはならない。
「いまわの際」は「今はの際」が語源だから、「いまはの際」と書いたほうがいいんでしょうか?「あわれ」も「あっぱれ」と同じく感嘆の言葉が語源だから、元の発音に近い「あはれ」と書いたほうがいいのかな?
多数派の使用している記述法に統一せよという意見も、言語の変化を認めないという意味で同様である。言語が変化するときは最初は常に少数の先駆者として登場するからである。
この日いづる(なぜか変換できない)国の国号にしても、「にっぽん」だか「にほん」だかはっきりしていない。どっちかに統一したほうがいいのでしょうか?
これは反論するのが非常に難しい問題だ。この点に関しては『こんにちわ』撲滅委員会のサイトの主張を受け入れざるをえない。ドラえもんに書いてあることはすべて正しいのだ。ドラえもんは現代日本人にとっての聖書である。
言語は人と人とのコミュニケーションを行うための道具である。当たり前のように聞こえる。しかし、このたとえ話には落とし穴がある。まるで言語は人間が発明したかのような印象を与えてしまうからである。人間が先にあって言語が後に来たのではない。言語はむしろ手や指にたとえられるべきであろう。指は便利な道具ではある。しかし人間が発明したわけではない。人間が進化してきたのと同時に指も進化してきたのだ。言語についても同じことがいえる。言語は人間が生まれつき持っている道具ということができる。
では、なぜ私を含めて「こんにちわ」という記述に対して違和感を覚える人が多いのだろうか?言語が道具であるという見方だけでは、それを説明することは難しい。どちらでも意味は通じるからである。「こんにちわ」のほうが合理的であるとするならば、さっさと新しい道具に切り替えればいいだけのことである。違和感など道具の使用者にとっては百害あって一利ない。
言語には、ほかに詩なんていうものある。思わず口ずさみたくなる音韻やリズム。これらはいったい何の役にたつというのであろうか?道具としては意味がない。
言語は、口、空気、耳、手、紙、インク、キーボード、ハードディスク、銅線、電波、光ファイバー、CRT、液晶などの媒体を通じて人の脳の間を飛び交う虫である。この虫は自らの生存のために、ライバルが現れると宿主に違和感を覚えさせる。「こんにちは虫」が「こんにちわ虫」の登場に危機感を覚えて、脳のなかで暴れているというわけだ。
また、虫は他の脳に居場所を見つけるために脳内でリプレーさせるように働きかけたりもする。芭蕉や李白の紡ぎだした言葉が世界に広まったのはそのためである。
注意しなければいけないのは、虫といっているのは単なるたとえ話であるということだ。言葉自体が意思を持っているというわけではない。ただ結果的にそう見えるような動きをするということだ。さらにこれらはあくまで仮説であって、メカニズムが解明されて実証されるまでにはかなり時間がかかるであろう。
この仮説が正しいとするならば、『こんにちわ』撲滅委員会の会員さんたちは、「こんにちは虫」に自らの行動を操られているあわれなロボットということになる。そんなことはないと個人的には信じたい。
これまで述べてきたように、言語は進化する。言語はエンジニアリングによる人工的な産物ではない。言語は制御できないし、する必要がない。結局のところ、言語はある種の生態系であると捉えるべきであると思う。そのためには、言語の内部にある程度の多様性と冗長性を保持して行く必要があると思う。『こんにちわ』撲滅委員会は、そのような言語の多様性を抑制するひとつの試みであると思う。
言語の統制を強めることによって、言語から多様性が奪われ、ひいては社会の変化に言語自体がついていけなくなるという可能性はありえると思うが、本当にそうなのか。私自身、書いていながらも確信がまだ持てないでいる。だから、今のところ「ある種の生態系としての言語」は憶測の域を脱していない。
私はケヴィン・ケリーの発明した「複雑適応系」という言い方が気に入っている。しかし、いきなり「複雑適応系」と書いてもわけわからないので、ここでは「ある種の生態系」とした。
全体こんにちわ撲滅委員会を検証する役に立つ文献とリンク規則が大好きな人たち××撲滅委員会カオスごっこ読み書きと人ミーム、その他日本語論未分類

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解説: アメリカの女流作家アーシュラ・K・ル=グウィンの「ゲド戦記」シリーズを、スタジオジブリが映像化したファンタジー・アニメ超大作。宮崎駿監督の実子である宮崎吾朗がメガホンを取り、少年アレンと大賢人ゲドの旅を通じて混迷する時代を生き抜くためのメッセージを投げかける。V6の岡田准一、菅原文太ら新旧の実力派が存在感ある声の演技を披露するほか、主題歌と挿入歌も担当した手嶌葵の圧倒的な美声にも心奪われる感動巨編。
ストーリー: 多島海世界のアースシーでは、聖なる生物の竜が共食いを始め、農民は田畑を捨て、職人は技を忘れていくなどさまざまな異変が起こり始めていた。やがて人々が魔法を信じることができなくなったとき、大賢人ゲドは世界のバランスを崩す者の正体を突き止めるための旅に出て、国を捨てた王子アレンと出会う。
原作も読んだことないし、はじめはそれほど鑑賞意欲はなかったんだけど、参考にと思って事前にYAHOO!映画のユーザーレビューを軽くチェックしてみたところ、目を疑うような酷評の嵐。
ひとのつけた点数なんてアテにはならないし、ソフト化されたらまた点数も上がったりするかもしれないが、とりあえず劇場に観にいった人のうち、少なくない人数がガッカリしてるんじゃないか、ということは推測できる。
そうなるとがぜん観てみたくなるから、人間というのは不思議だ……って、人間全体に適用できるほど普遍的な反応じゃない気もするが。ともかく、勇んで劇場へ向かったのだった。
上の「解説」にもあるとおり、監督の宮崎吾朗は宮崎駿の息子さんだが、本作の監督を務める以前はジブリ美術館の館長をしていたらしい。つまりアニメ制作の実務に関しては、知識はあるかもしれないが経験ゼロということで、ジブリも思い切った人選をしたものである。
つまり、いくら宮崎駿の子供だとはいえ、素人の初監督作品というわけで、いつものジブリ作品と同じに考えて観ては、そりゃYAHOO!のレビューも荒れるだろう。
主人公のアレン王子は、ときどき自分の凶暴性を抑えられなくなる性質らしく、冒頭で、父である王をナイフで刺し殺して逃亡の旅に出る。
ヒロインであるテルーは、親に虐待されて捨てられたために、顔に大きなやけどの跡が残っている。それがトラウマになっていて、他人が嫌い。
これらはもちろん「キレる若者」「アダルトチルドレン」「ダメ。ゼッタイ。」といった、現代社会の諸問題を反映したものであろう。
なおこのアレン王子、立派な王の息子であるというプレッシャーから、自分の中の良心にあたる部分から目をそむけ続けた結果、人格が分裂。それでこんなキレやすい若者になったり父を殺してみたりという設定なんだが、これも監督から見た、自身と駿の親子関係を反映してるんじゃないだろうか。実際のところどうなんだか知らないが、仕事にかかりきりで、家庭的なことは妻に任せっぱなしな王の描き方とか。
絶体絶命なわりに悠長なことを言っているところを、たまたま通りがかったゲドに助けられ、一緒に旅をすることになる。
ところでアレンに名前を尋ねられたゲドは「ハイタカ」と答えるんだけど、彼は以後ずっと最後までその名で通し、劇中「ゲド」と呼ばれるのはたった1度きり。
この世界の人は通り名の他に<本当の名前>というのを持っていて、それを他人に知られるとえらいことになってしまうため、普段は通り名を使うことになっているらしい。
たどり着いた街で、少女が人さらいに襲われているのを見かけたアレンは、持ち前のキレやすさを発揮して賊を撃退するが、少女は礼も言わずに逃げ去ってしまった。
その後、海辺でうたた寝をしていたアレンは、人さらいの逆襲にあい、ボコボコにされたうえに奴隷として売り飛ばされそうになるが、「人探しの術」で飛んで来たハイタカに助けられる。
怪我を負ったアレンを連れて、ハイタカが旧知の女魔法使いテナーを訪ねると、そこにはアレンが助けた例の少女・テルーもいた。彼女はテナーの養女なのだった。
アレンもアレンで、何も言い返せないままうじうじと時を過ごすが、ある日草原でテルーが、持ち歌「テルーの唄」を歌うのを聴き、なぜか突如ぼろぼろと落涙。
テルーもそれを見て心変わりしたのか、手のひらを返したように仲良く接するようになるのであった。って、若いものの心の動きはよくわからんよ。
永遠の命を欲するクモは、どうも過去にハイタカと因縁があるらしい。彼が街にいることを知ると、アレンとテナーをさらってハイタカを自分の城に呼び出した。
計略どおりにクモの城に飛び込んだハイタカを待ち受けていたのは、まんまとクモに操られたアレンであった。
王子をなんとか正気に戻すことに成功したものの、ハイタカはいきなり魔力を失って、あっけなく捕えられてしまう。クモの城の中では、魔法を使えなくなってしまっていたのだ。
ハイタカとテナーは夜明けとともに殺されてしまうというのに、せっかく正気に戻ったアレンはボーっとしたまま動かない。そこへ、煮え切らない主人公に喝を入れるために、テルーがやってきた。
もうこいつ放っとけよと誰もが思うシーンであるが、そもそもそれ以前に、ここまでの展開がかなり平板というか退屈なので、半数ぐらいの客が、誰が死のうがどうでもいいよという投げやりな気持ちになっていることも事実。
説得の末、理屈で納得してというよりは、好きな女が励ましてくれたからという感じで、ようやくハイタカ救出を決意するアレン。
テルーとお互いに<本当の名前>を告げあうと、画面にぶわーっと竜が現れて見得を切るのであった。どういう意図の演出なのかはよくわからないが。
ラスボスを前に、父である王を殺したときにアレンが奪った魔法の剣、人さらいからテルーを救うときでさえ断固として抜けなかったその剣が、さすがにクライマックスだしというサービス精神のおかげで、見事に鞘ばしってみせる。
するとクモは、みるみるシワシワにしぼんでいったではないか。若さを失ったクモは、もはやこれまでとテルーをさらい、さらに高い塔の上へと逃げていく。
さてここからは、いよいよ本当にラストシーンなので、知りたくない人はブラウザ閉じてください。ここまで書いておいて何だ、という声もあろうかと思うが。
と、お前が言うなといわれたら反論できないような言葉の数々で、必死に説得を試みるが、それもむなしくテルーは絞め殺されてしまう。
クモの死とともに城が崩れ始めるが、竜となったテルーはアレンを乗せて飛び去っていく。それを見送るハイタカとテナー。
いっぽう地上に降りた竜は、テルーの姿に戻り……って、なぜ服までもとどおりになっているのか。そんな魔法はいらない。
この何ともいえないグダグダな感じ、主人公である王子様の性格によるところが大きいと思う。ちょっとまとめてみると、以下のような感じだ。
☆キレやすい若者であるが、ふだんはウジウジしているうえ受け身な性格。低血圧そうな感じで、しゃべりも決断力もハッキリしない。
タイトルで「戦記」となっているくせに、ほとんど活躍の場がない大賢人ゲドもどんなもんだろう。なにせ振り返ってみれば、後半はただとっ捕まっていただけという体たらくである。
最終的には、彼が探していた「世界のバランスを崩した原因」もどこかへうっちゃられてしまい、根本的な問題は解決しないまま映画が終わってしまう。
しかし「魔法使いが魔法を使えなくなった」という割には、ハイタカやクモはモリモリ魔法を使っていた気がするが。
なんだかいろいろ釈然としないものが残る映画であったが、とりあえず、原作者の名前はものすごくかっこいいなと思った。
コナミの人気ホラーゲームを「ジェヴォーダンの獣」のクリストフ・ガンズ監督で映画化。廃墟と化した不気味な街に足を踏み入れた一組の母娘を、想像を絶する恐怖が襲う。主演の母親役に「ネバーランド」のラダ・ミッチェル、その娘シャロン役には「ローズ・イン・タイドランド」で注目を集めたジョデル・フェルランド。
ローズとクリストファーの夫婦は、9歳になる娘シャロンの奇妙な言動に悩んでいた。しばしば情緒不安定になり、“サイレントヒル”とつぶやくシャロン。彼女を救う手掛かりを探すローズは、やがてサイレントヒルという街が実在することを突き止める。そこは、30年前に大火災に見舞われた忌まわしい過去のため今では誰も近づかないゴーストタウンと化していた。ローズはクリストファーの制止を振り切り、シャロンを車に乗せその街を目指す。しかしサイレントヒルへと続く狭い道の途中で事故に遭い、ローズは気を失ってしまう。彼女が意識を取り戻したとき、そこにシャロンの姿はなかった。ローズはシャロンの行方を追って、サイレントヒルの奥深くへと彷徨い込んでいくのだが…。
ゲーム原作の映画といえば、デニス・ホッパーがどういう経緯でかクッパ大王を演じた『スーパーマリオ』、いちばん似ていたのがザンギエフだった『ストリートファイター』、ゾンビはあまり関係なくなってしまった『バイオハザード』など、ゲームファンにとっては煮え湯を飲まされ続けてきた、ある意味黄金のジャンルである。
という確信に満ちていたわけだが、それは「映画にしてあげる」という映画側の思い上がりがもたらした部分もあったんじゃないか、ということが、本作『サイレントヒル』を観るとよくわかる。
変更点はいくつかあるが、観終わった印象は、まぎれもなく「サイレントヒル」であった。それは、「サイレントヒル」という世界を成り立たせている要素を抽出し、映画に再構成する手際がとてもすぐれていたせいだと思う。
ゲームやってて「おぉすげえ美人!」と思わずコウフンさせられた、裏世界の看護婦さんも、ちょこっとだけ出演。
もちろんシビル婦警も出てくる。彼女は原作以上の退場の仕方をしてくれるが、あれはうれしいと言っていいのかどうか。
確実にうれしかったのは、サイレンとともに裏世界に変貌していくサイレントヒルの町を、大迫力の映像で観られたこと。あのためだけに劇場に行ってもいいと思う。
こういう映画だと、ラストに巨大な怪物が出てきて、主人公に倒されて大爆発、エンド。みたいなパターンが多いが、まさかそういうのを期待してこの映画に足を運ぶ人はいないだろう。
これは書いても構わないと思われるので書くが、この映画、主人公は一匹も怪物を倒していない。ザコさえ倒してないのだ。
じゃあどんなものが出てくるのか……ってそれ書いたら絶対に誰かに殴られるから秘密だが、ラスボスとの新しいあり方を提示してあった、とだけ書いておく。
DVDになったらたぶんもう一回エントリー書くと思うので、内容に関する感想はそのときまでおあずけしたいが、とりあえずゲームのファンなら絶対に損はないから、なるべく劇場で観ていただきたい。
ゲームやらない人も、これだけ外さないホラーも近年珍しいので、ハリウッド製の気の抜けたサイダーみたいな「自称ホラー」にうんざりしてる人なんかにはとくにオススメ!
ロクにルールも知らないぼくのような人がどうこう言う話じゃないのはわかっているが、一点だけ言わせていただきたいことがある。
日本代表のイメージカラーなんじゃないかってのはわかるが、なんでサムライなのか。ほとんどの国民が、先祖はお侍じゃないっていうのに。
「サムライブルー」といわれると、憂鬱そうなお侍の姿が思い浮かんでしまいやしないか。それはぼくだけなのか。
サムライに限らず「悲劇」とか「戦士」とか「守護神」とか、気付けばサッカーの劇的ぶりは大変なことになっている。
まあ野球も全く詳しくないので推測だが、すくなくとも今のサッカーのように、興味ない人の耳にまで大げさな表現は入ってこなかった。
ここ数年で「劇的」が本当に安くなったことを勘定に入れても、やっぱりサッカーの「劇的」大安売りは、従来のスポーツ表現の本道から外れているんじゃないか。
……と、そういう流れで考えてみたとき、じつは現在のサッカーのありようは、プロレスのそれにより近いんじゃないかということに思い当たった。
「伝説」「戦士」「革命」といった表現の劇的ぶりも重なるし、選手に「皇帝」だの「黒豹」だのと異名がつくのは「生傷男」とか「人間山脈」なんかと同じ意味だろう。
その後、鬼のような形相の釜本が現役復帰してきたり……って、何を言ってるのかわかんない人は「みのもけんじ プロレス」でググってごらんなさい。
なるほど、サッカーはスポーツである以上に興業なのかもしらん……とか言い出すと、必要以上に怒られそうな気がするので、そのへんはスルーで。
と、劇的問題にはケリがついたところで話を戻すが、サムライってのはやはりどうかと思うのだ。心の中で気取るには構わないが、キャッチフレーズにするというのはやっぱり選手も恥ずかしいんじゃないか。
Jホラードラマ 日本のこわい夜◇夏のドリフ。⇒ クレジット&キャッシング カード業界のコールセンターからみた裏側 (02/07)
28日後…◇第1回 ゴーストタウン映画祭 その2。⇒ DVDジャンル別リアルタイム価格情報 (01/04)

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